大いなる音楽の効用

しかし、ここからが本当の勝負であった。
大きな仕事を成し遂げようとしている時、急に魔がさすことがある。
おいしいおいしいとサンドイッチを食べ進み、最後にパンの耳のところへ来て急に食べたくなくなるのと同じである。
山は9合目まで登ってやっと半分来たと思え、というではないか。
しかし、我らがミュージカル・ザ・ヒットパレード、初日を目前にしてそんな気の抜ける隙間は一瞬たりともなかった。

そのことは26日のバンド・リハーサルの日に思い知らされた。
私はこの60日間、ヒットパレードという作品にイメージを集中し、苦楽を味わい、生活を共にしてきた。
戦後のジャズマンの歴史から、今この自分の生きている音楽の時間までを、ありありと心で描いてきた。
そこにはジャズの喜びがあり、ジャズの豊かさがあり、一方でジャズのはかなさがあり、ジャズの怖さがあった。
そして何といってもジャズの歴史があった。ジャズは変化し発展を遂げ、楽しみ方やスタイルは多様化した。
しかし譜面に記されたそれは、あくまで音符であって、ジャズではない。本当の音楽が生まれるのはここからなのだ。
たとえばある曲をグレンミラースタイルで演奏しなくてはならない、が次の曲のイントロはデキシースタイル、
間奏はエリントンの前期の感じで・・・。と、私の注文は細かいのだ。同じジャズでも楽しみ方が違う。
プレーする時の体の動かし方や、顔の表情までちょっとずつ違う。もちろんプレーヤーの奏でる音色も違う。
こんな私の2ヶ月分の想いをすべて、ミュージシャンに伝えなくてはならないのだ。
もちろんジャズの好きな、ジャズの上手なプレーヤーばかりに集まってもらったのだが、
私の細かさとしつこさには彼等も閉口したに違いない。
幸いにも今回、長年日本の音楽シーンをリードし続ける名トランペッター数原晋さんを、バンドの一員として
迎え入れることができた。
サキソフォンにも私が一番信頼している平原まことさんと近藤淳さんのお二人に御登板願い、それが叶った。
もしも彼等の協力がなければ、この上演は間に合わなかったろう。

初日前のゲネプロを見て、プロデューサーの渡辺ミキが真っ先にバンド楽屋に飛び込んで来た。
「皆さんの演奏を聴いて、この芸能界という世界を最初に創ったのは
ミュージシャン達だったんだ、ということをハッキリと再確認しました。」と皆の前で伝えた。
私は長い間、のどの裏側にひっかかっていた飲み込めない何かがズルズルと腑に落ちていくのを感じていた。
私は彼女を信頼する。実は私と彼女は幼なじみである。3~4歳の頃から知っている。
しかし、仕事をしたのはこれが初めて。46年目の初仕事。
渡辺晋や宮川泰が居たから私たちは今ここに居る。
もしかして私たちは、この日のためにお互いの経験とやる気を積み上げてきたのかもしれない。

初日から楽日まで、私達は全公演、そんなプライドをもって演じることができた。超豪華なセットも群舞もない。
が、カーテンコールで整列する14人のシンガー(役者)と10人のミュージシャンの背中に、
これがSHOWの原点・・・という確かな感触と誇りが溢れていた。
46年目の奇跡。
音楽の神様の粋なはからいか・・・。

今回フジテレビの中村さんとも久方ぶりの再会を果たした。
GANKUTSU-OH のプロデューサーとして初めてお会いしたのは私が30歳の時。16年前である。
そのGANKUTSU-OH は、まさに20代の私の総括のような作品だった。
ミュージカルのプロットとテーマとなる曲2曲を作るのに約3ヶ月、ボーカルスコアーを作る、
つまり作曲するのに約1ヶ月、オーケストレーションにやはり約1ヶ月かかったのを覚えている。

オーケストレーション、日本ではアレンジと呼ばれてしまう工程が、作曲の中で一番の難関であり、
根気のいるところであり、時間との勝負でもある。
なにせボーカルスコアーの時点で3段譜15ページだったメドレー曲は、
オーケストラスコアーに形を変えると、18段譜60ページぐらいにかさが増してしまう。
伴奏を受けもつオーケストラのメンバー 一人一人に2時間~3時間分のセリフを与えるようなものだ、
と思って取り組めば、実にやりがいのある仕事なのだが、電話帳2冊分ぐらいのスコアーを
一曲一曲丹念に仕上げていくというのはやはりかなりの重労働なのだ。
しかもこうして作り上げられたスコアーは、日本では印税を稼がない。
労多くして何とか・・・というやつだ。これでは人が育たない。
必然的に日本の作曲家の多くは、ありとあらゆる仕事をかけもちし、
ひとつの仕事に1ヶ月という時間を集中させることさえ難しい。
案の定・・・というか、こんなはずじゃなかった・・・というか、
ヒットパレードのオーケストレーションに充てられた時間はほんのわずかであった。
そのことだけに集中できる日というのは正味5日間ぐらいしかなく、
他の日は、別の仕事のリハーサルや録音、コンサート出演・・・と絢爛豪華な繁盛ぶりであった。
あとは朝起きてから出かけるまでの2時間、リハーサルの合間の30分、など、
その日その日で工夫を凝らし、お手伝いの人材も確保して、
何とか26日の音合わせに間に合わせた。
今振り返ってスケジュール帳を眺めても、これは奇跡としかみえない。

実はこの技は前段階の、ボーカルスコアーの時点で種が撒かれている。
以前書いたように、ミュージカルのボーカルスコアーというものは、メロディーラインの他に、
コーラスのパートやピアノ伴奏のパートも含まれている。
オーケストラの中のピアニスト(私)にはこのピアノパートを見て弾いてもらえば充分で、
さらに、ほとんどの小節で、このピアノの左手部分はベースラインと等しいわけで、
つまり10人分のオーケストラ(バンド)のうち2人のパートはもう既に前の月に
出来上がっていた、というわけである。
ボーカルスコアーというものの重要性が分かっていただけるであろうか。
ウエストサイドストーリーであれ、コーラスラインであれ、楽譜店の二階などに置いてある
この輸入版のボーカルスコアーを手に入れれば、ピアノ一台でミュージカルが出来るのである。
歌のレッスン、振付、場面の稽古から衣装を着けた通し稽古まで、
これ一冊とピアノ一台で楽しめる、というわけだ。
6畳一間のアパートが、突然マンハッタンの高速道路下のフェンスになったり、
南太平洋の秘境になったりするのだョ。
「ボーカルスコアーこそ我がライフワーク」
6月26日、98%完成。

たとえば15秒のC.M.のための音楽を書くときは、15秒の感覚、というものがある。
当たり前だが15秒がどんな15秒だったか、という印象が問題なわけだから、
15秒間という時間を見渡す、ということが必要だ。
歌謡曲なら3分。3曲のメドレーなら5~6分、という時間を見渡しつつ音楽を構築していく。
音楽を作る上で最も当たり前なことのひとつだ。
これが15分のメドレーだとどうなるか・・・。
最後の3分間の盛り上げは、これでいいだろうか・・・。
しかし、頭っから歌って聴いてみないことには、その判断はつかない。
そこでもう一度頭っからピアノで弾いてみるのだが、なんせ15ページにもなるので
譜面をめくるだけでも厄介だ。おまけに電話はかかってくるし、
『ご飯よ~』の声が聞こえたり。
どうにか弾き終わるんだが、先の12分と後の3分のつなぎは4小節がいいか、2小節がいいか、
あるいは唐突な方がよりいいか・・・。
いやまてよ、ところで舞台上は、今誰が歌ってんだっけ・・・さっきもこの人歌ったろ・・・
そろそろこっちの人にもソロを歌わせた方がいっかぁ・・・。あ、そうすると、このキイじゃだめだなぁ・・・。
こうしてまだスケッチ段階のメドレーは、完全な楽譜にならぬまま振り出しへもどり、
とにかくイントロからもう一回、その気になってピアノをジャジャーン・・・。
全くメドレーは完成すればこんなに楽しい音楽はないのだが、準備の段階ではこんなものなのである。
牛歩・・・というよりか、これも『反芻』といった方が正しい。

さて、苦労の末どうにかボーカルスコアーを完成させ、自分で歌ったテープを作り、
渡辺エンターテインメントの事務所へ送る。今まで作ったオリジナル曲も、
すべてこうして自作のデモテープを作ってきた。のだが、ここではじめて
プロデューサーから「待った!」がかかった。プロデューサーと作家は同じ意見らしかった。
「もっと大タンに!」「おもちゃ箱をひっくり返したようなメドレーに!」
ふ~む、確かに身に覚えがある。私はちょっと律儀なメドレーを作ってしまったかもしれない。
というのは、実在のヒットパレードを意識せざるを得なかったからだ。
昭和34年から45年までオンエアーされていたこの番組に、天地真理や小柳ルミ子はもちろん出演していない。
そんなことは先刻承知。
その上でファンタジーを作ろうとしていたはずなのに、いざ作業に入ると、このことをなかなか無視できない。
こんな名曲達を感性だけで並べたりカットしたりすると、バチが当たりそうな気がしてくるのだ。
偉大な作詞家・作曲家の先人たちから、ふくろだたきに遭いそうな気がしてくるのであった。
そんなわけでプロデューサーと作家のお二人から「ちょっとまともすぎる・・・」とダメが出たのも当然。
既に私にも覚えがあった、というわけだ。

さて、で、どうするか・・・。一応手がかかっている労作だから、良いところは残す。
で、ここからがすごかった。まずオーラスの「タイガース・パート」を中盤にもってきて、
中攻めだった「若いってすばらしい」をしめくくりに使ったら・・・?というアイデアを
鈴木さんが出した。そしてこういう要望も出た。
あと10曲くらい、ポンポンポ~ンと切り替わっていくような部分を作れないか、と。
確かに「タイガース」で終わるより「若いってすばらしい」で終わる方が、芝居のテーマとも重なり素敵だった。
しかし既に16曲あるこのメドレーにあと10曲突っ込む・・・というのはどうか・・・
いくらなんでも飽きないか・・・いや、ずっとバンドが伴奏し続けるから飽きるんだ。
思い切ってアカペラにしてみたら・・・いける!! 
私は稽古場を飛び出して即帰宅。そこから集中して次の日の稽古にこのメドレー完成版を間に合わせた。
完成したメドレーは、16曲+10曲で26曲、時間はきっちり15分。588小節。
こうして単なる年表メドレーになることもなく、皆の記憶の断片をつなぎ合わせたような
ワクワクのてんこ盛りで、より遠くにボールを飛ばすことに成功した。

5月26日、M-15「エニシング・ゴーズ」M-16「Get Back Good Days」まで完成。
6月1日には毎年恒例のクインテット・コンサート・シーンの録音があるため、
しばしこっちのおもちゃ箱にはふたを。
別のおもちゃ箱のふたを開ける。
おや~っ、こっちのカラータイマーもピコピコ鳴ってやがるー!! 
5月が31日まであることに感謝。

5月に入り、あらかじめ決まっていた予定通りにコンサートツアーが始まった。
この間をぬうようにして作曲を進めなくてはならない。
電車の中、散歩の途中、すべての時間が鼻歌タイム。
幸い、鈴木聡さんの歌詞は作曲しやすい。
文学作品(文語)としての詩が一方にあり、歌うための定型詞という造りがもう一方にあるとすれば、
聡さんの詞はもうひとつ口語寄りである。言い方を変えれば、オリジナル作詞であるのに、
すでに替え歌のような、語感重視のテンポがある。
あとは私に素敵なメロディーさえ訪れれば、なんとか音符にはまってしまうというわけだ。
これぞミュージカル作詞の真骨頂、長年の経験と、幼い頃からの夢が、ここに実を結んでいる。

聞くところによると鈴木聡さんも大のミュージカル少年だったそうだ。
「ミュージカル少年」というと、ミュージカルを観たり出たりする少年という意味もあろうが、
ここでの意味は「表現手段がミュージカル」という少年の意味である。
かく言う私も中学時代、バンドのオリジナル曲は途中でセリフになるミュージカル調であったし、
鈴木氏も高校時代の処女作はやはりミュージカルで、しかも彼の作・作詞・作曲・主演であったらしい。

そんなわけで私は、何曲かの歌詞を頭の中にしまい込み、どこにいても思いついたメロディーを常に反芻し、
吟味していた。5月7日は大阪フィルハーモニーとのレコーディング・セッション。
夜のミーティング終了後、ホテルから夜のお散歩。
ヨドバシカメラに向かう長~いトンネルの中で訪れたのがM-11「ピーナッツ・イン・アメリカ」。
曲中の「福神漬」のくだりがかわいらしい。ザ・ピーナッツが成功して安定飛行に入り、
もはや生活観や懐かしさを醸し出しはじめた・・・という実にリラックスした曲調である。
ブロードウェイミュージカル「I DO I DO」の中の「去年(こぞ)の雪(ゆき)いま何処(いずこ)」
という曲をどこかで思い出しつつ、鼻歌の旅は続く。

私の作曲のプロセスはいつもこんなだ。
台本を初見し、その時ピンと来た音を音符に書き留める(この時は台本に鉛筆で五線を引く)。
その断片を散歩中などに反芻。色々と曲が一人歩きの旅をして、ようやくピアノの前に戻ってくる。
ほとんど紡ぎ上がったそのメロディーを確認しつつ、市販の五線紙へ。
4分の2拍子にしようか2分の2拍子にしようか、ここで転調してこの高さになろうか、
この繰り返しの間にこのセリフを入れようとか、ここでようやくすべてが決まる。
作曲とは時間の演出・・・という名言はここで生まれたのだ。
5月4日~5月6日まではアンサンブル・ベガの全員と楽しい演奏旅行。
この間、私の頭の中味はポーカーの曲M-2「スマイルでいこう」。
リハーサルの間も自然反芻。6日は本拠地、宝塚での演奏会。
その夜は先の大フィルレコーディングのために大阪泊りのため、コンサートの後も飲み会には出ずに
M-2の最後の8小節をベガホールの練習室で完成させて、譜面ケースにしまう。

5月12日~13日は平原まことさんとの演奏小旅行。大好きな新潟へ。
頭の中はM-8「昭和33年の東京」。リハーサルの合間に、それとなくピアノで弾いてみる。
が、平原さん無反応。
実は今回のミュージカルのオーケストラの仕事を、不躾ではあったが平原さんにもお願いしてあった。
心の中では『あと2ヶ月したら、毎日演奏させられる曲ですよ~今の。』
作り手の特権はこの誰よりも早く、心で観て心で聴いて楽しめる、ということだろう。
旅行気分は鼻歌気分。

ヒットパレード取材、と称して、鈴木聡・渡辺ミキ両氏と対談。
春らしく黄色いシャツをクリーニングのビニールから出して着る。
終了後、制作の奈緒子さんとスケジュール確認。顔を見合わせる。
5月、半分はコンサートなどで埋まっている。6月、ほぼ3分の2が埋まっている。
ヒットパレードのお稽古にはほとんど顔も出せない。冷や汗がツーッとほほを伝う。
4月17日、一曲もまだ生まれていない。

最初のひらめきはその3日後には訪れていた。
「題名のない音楽会21」2週分の収録を終えた4月20日、
M-1「ギブ・ミー・ミュージック」の作曲にとりかかる。
作曲といっても、この一曲で台本の10ページ分が費やされている。
戯曲ではなく、完全なミュージカル台本である。
一番を半分歌ったところでシンさんと山崎のセリフ、あとの半分を歌った後で
ミサさんと洋子の芝居、やっと二番を歌い切るやいなや第一のメドレーへ突入。
このオーバーチュアー代わりのメドレーが難問ではあるが、
そこまでのメロディーは歌詞を一読しただけで聞こえてきた。
♪ミ・レ・ドー・ミ・レ・ドー・ミ・ソ・ソー♪
古めかしくて愛嬌があって、どこかで聞いたようで新鮮。
こんなメロディーが無理なくやって来たことが嬉しい。
あえて誰風といえば「宮川泰風」か。

メドレーの部分を考えながら感じたのだが、これは大変な作業だぞ、と改めて思い知る。
RAG FAIR 6人のパートをボーカルスコアーの中に編み込まなくてはいけないからだ。
しかしこれが今回のミュージカルの独自な部分なのだ。
6声のコーラスが自在に舞台上で物語を進めていく。時には主役の背後でスウィーティーな
コーラスを付け、時に重唱になり輪唱になり、6声のメロディーを歌う。
舞台上では当然暗譜(譜面を見ないで歌う)であるから、練習のためにイの一番に
彼らのパートを完成させねばならない。メロディーを作るだけではないのだ。

最初のひらめきから10日間(平原さんとのセッションCDの録音、ヒットパレード制作発表、
クインテットの収録等、同時進行ではあったが)、4月30日、ようやくM-1が完成した。

5月1日、さっそく出来たばかりの「ギブ・ミー・ミュージック」を
演出家山田和也氏とプロデューサー渡辺ミキさんに聞かせる。
この日は1幕ラストの15分メドレーの選曲会議であったのだが、
私は「とにかく聴いてくれ」とばかり、練習室のピアノを横取りして、
そこに居合わせたスタッフ全員の前で唄ってきかせる。
オリジナルミュージカル制作過程で、もっともスリリングで、
もっともクリエイティブで、もっとも幸せな時間である。
ショーが動きだした日。
スタッフ全員、目を輝かせ、というよりも、すでに目頭を熱くしている。
が、一番熱くなったのは私。「こんな曲が出来るなんて・・・」という感謝のような感覚。
そしてそのことを私と同じく、あるいはそれ以上に理解したプロデューサー。
お互い知り合って46年目の初仕事。ベストパートナーの予感。

それにしても時間がない。その日打ち合わせたメドレーのメニューを見るだけで気が遠くなる。
15分=20曲のメドレーのスコアーを書かねばならない・・・
しかもこれが氷山の一角という現実。

舞台音楽家をやっていると大変気になることがある、それは日々のくらしの中で耳にする、言葉のイントネーションである。
単純に方言や流行ではおさまらない、特に外来語のイントネーションには思うところがある。プロデューサーにディレクター、英語に近い発音をすればプロデューサーにディクター(太字部分を高く発音、以下同様)
となり、私は昭和36年生まれだが、そう耳にして育った気がする。
それがいつのまにか尻上り、プロデューサーにディレクター、になってしまった。
しかし農作業のトクターのことをトラクター、とは今でも言わない。きょうびの農家では言うのでしょうか・・・。

では何故こういう尻上りイントネーションになってしまったのか。
私の記憶の中で決定的だったのは、中学生の時先輩と一緒にエレキギターのカタログを見入っていた時である。
「センパイ、やっぱカッコイイですねぇ、フェンダーのギターは・・・」
「ちょっとまて、フェンダーじゃなくてフェンダーだろ」
「・・・」
「ついでに言っておくとブソンじゃなくてギブソンだぞ」
「・・・じゃ、エリック・クプトンは・・・」
「バカ、クラプトンだろ」
「(やっぱり・・・)」
先輩が自慢気にエリック・クラプトンの話をする時、きまってイントネーションは尻上りで平らなクラプトンになっていた。
それは尊敬や憧れの念を通り越して、アイドルに対する愛情、親近感、が込められていた。
「クラプトンのさぁ、クリームのL.P.聴いた。スンゲェ早弾き・・・」
前出のフェンダーも、レオ・フェンダーという人が創立者だから正確にはフェンダーだと思うのだが、エレキが好きで好きで、
ねてもさめてもフェンダーという心理の中で、ついに発音の常識に異変がおきるのではないか。
ついでに言うと、車のS字クランクのことをきっと教習所の先生達はクランクというに違いない。
海沿いの貸し倉庫業界ではトランクをトランクと発音しているかもしれない。
昔私の通っていたヨガスクールの先生も、タオルのことをタオルと呼んでいたから。
「トオル君」「ハーイ」「タオル君」「ハーイ」と返事が聴こえて来そう。
すべてはその人にとっての「身近さ」・「親近感」が込められてそうなって来る。
「テレビ?OK、OK!オレのさぁ、知り合いのさぁ、プロデューサーがさぁ・・・」なんて表現にはピッタリのメロディである。

以上、どうでもいいといえば、どうでもいいのだが、ハタと困るのがミュージカル風のものを作曲している時である。
舞台では何と歌っているのかが耳で瞬時に解らないといけない。
時代によってイントネーションが違っては大問題である。
♪一杯の~コーヒから~・・・ 服部良一作曲のこのメロディ、子供のころはコーヒのところが「ン?」と思えたが、
今考えてみるとこの方が Coffee に近い。あれれ、時代によって違うのはこっちの耳の方か・・・。

「マハリーク マハーリタ ヤンバラヤンヤンヤン・・・」これで分かる方は私と同世代。
カラーアニメーション創成期の傑作「魔法使いサリー」のテーマ曲である。
ムダのないキャラクター設定、ただの優等生ではない主人公サリーちゃんのユーモア。
ヨシコちゃんとスミレちゃんの「長屋」対「白亜の殿堂」が学校で交わるところにもイヤミがなく、愉快さが残る。
少女マンガと分かってはいたが、最終回では泣いてしまった。
いくら絵が古く汚くなっていても、たまには再放送して欲しい。

このサリーちゃんの後を受けて立ったのが「テクマクマヤコン」の「秘密のアッコちゃん」であった。
こちらの方が世間的には成功したように思えたが、作品が心に訴えるものとしては
前作の方がはるかに奥深く感じたものだ。

当時から私の感覚はやはり一般的とは言い難かったのか・・・。
「ルパンⅢ世」「宇宙戦艦ヤマト」・・・どれもパートⅠ、第一作目の方が好きだ。
絵は確かにパートⅡ、あるいはニューバージョンの方が正確無比なのだが、心に響くのは人気が出る以前の作品群だ。
「ルパン~」でいえば、主人公のジャケットが赤ではなくうす緑っぽかった時代。
原作者のアイデアが毎週てんこもりで興奮度がすさまじかった。
ラストの歌もよかった。峰不二子がバイクに乗り砂漠をひた走る。
歌詞は ♪ワルサーP38。 孤独だ、美しい。かぎりなく切なかった。
一方、父の代表作「宇宙~」においても、最初のTVシリーズ26話が傑出している。
このあと「ヤマト」はTVシリーズ6パターン、映画4パターンが制作され、そのつど父は新しいメロディーに
日々頭をなやませていたものだが、私なぞつれないもので、3作品以降は見てもいない。
それぞれに共通して言えるのは、どれも2作目以降はキャラクターありきのストーリー展開、
「キャラクター戦法」になってしまった、ということである。本来お客(見る側)の想像力にゆだねられるべき
主人公たちの細部が、刻銘に描かれ、むしろそっちがストーリーの中心になって行ったりする。
そうなると作り手の想像力を押し付けられている様で興醒めしてしまうのは私だけか!

しかし世間はむずかしい。いつもウラハラ。ルパンⅢ世は「赤いジャケット」になってからパァーッと火が付き、
未だに全世界的に楽しまれている。キャラクター戦法は金になるのだ!
そういえば、イギリスの人形劇「サンダーバード」も、後期の劇場版映画では「悪役キャラ」が登場し、
私は当時子供だったが「子供ダマシ・・・」と憤慨した。
「サリーちゃん」「ルパンⅢ世」「宇宙戦艦ヤマト」「サンダーバード」と、こうして並べると、
何が壮観ってやっぱり音楽だナァ。

かの映画スター、ジェニファー・ロペスが、かつて日本のオリジナルミュージカルに出演していたのを
御存知だろうか。9999/10000 の確立で御存知なかろう。
あとの 1/10000 の人間はおそらく「大阪花博ミュージカル・シンクロニシティ」の関係者であろう。
実際彼女はその和製ミュージカルにアンサンブルの一人として出演していた。
無名時代の彼女のキャリアのひとつである。
稽古期間、上演期間、あわせて二ヶ月ほど東京と大阪に滞在していたハズである。

何年か前に、新作映画のプロモーションで再び日本を訪れたジェニファーは、記者会見で、
「私が知っている唯一の日本の歌」として「Beautiful World」という花博ミュージカルの中の歌を披露し、
記者達にサービスをしたそうだ。その曲の作曲者が何をかくそう私である。
作詞は作家の高平哲郎氏。バブル隆盛の頃のミュージカル。
あの時期私達はよく日米合作とうたい、アメリカ人振付師を雇ったりアメリカ人出演者をオーディションしに
(買い付けに!)アメリカへ渡った。この花博ミュージカル・シンクロニシティもそのひとつで、
主役級ではないがアンサンブルの一人として雇ったダンサーの中に未来の映画スターが混じっていた、というわけだ。
実際のところ、彼女にソロの歌があったわけではなく、その他多勢の中の一人であった由、
私は当時の彼女を覚えていない。
いやそれどころではない。私は彼女の映画を観たことがないのだ。

数年前の、その記者会見の後、私と高平氏との会話。
「なァ、アキラ。花博に出てたジェニファー・ロペスがこの前映画の記者会見であの歌歌ったらしいぞ。日本語で。」
「・・・?」
「お前、知らないのか。花博のメンバーにジェニファー・ロペスが居たことを。覚えてないか、眼がくりっとして、
あれが何とジェニファー・ロペスだったんだよ。」
「・・・?」
「あっ、お前は映画スター ジェニファー・ロペスを知らないのか!」

正解。私は不勉強と言われてもしかたないが、昨今のあまりの情報の多さに、
チャンネルを別の次元に合わせて活動して来た。
お陰でジェニファー・ロペスも知らずに育った(?)。
先日新作ミュージカル「クラリモンド」でご一緒した貴水博之さんのことも知らなかった。
いかに人気のあるシンガーか。否、彼は実力も凄かった。
私の妻はもっとすごい。バイオリニストである妻と私の会話・・・
「明日は、一日中武道館で仕事だから。」
「ヘ~ェ、誰かの伴奏ですか。」
「そう、エーッと、最近人気がある、何て言ったっけ・・・変な名前・・・スキップだっけ。」
「そりゃSMAPだろが!」

こんな風に我が家は「流行」とは別の流れの中を生きている。
流行らせようと思って作曲をしたこともない。
しかしこのままで良いとも思っていない。
こうしてもう二十五年もミュージカルばかり書いているのだから、その世界でホームランを打ちたい。
究極の目標は、世界中で愛される曲である。

東北新幹線が出来てもう何年目だろう。
10年ほど前に那須高原に行っていた時期があり、ちょくちょく利用していた。
先日旅公演で仙台に行った際、久々に乗ることになった。
乗ってすぐ上野に向かう車中、私は耳を疑った。
「今だにあの曲を使っている!」

車両も変わり、緑のラインが若葉マークっぽかったのが、今じゃ二階建てだ。
しかし「マモナク・・・ウエノ・・・」というアナウンスの前に必ず流れる音楽は昔のままだったのだ!
そりゃあ物持ちの良いことで・・・さぞや名曲なのでしょう・・と、これだけなら驚きもしないところだが、
その曲には重大な特徴がある。
当時からその音楽にはミスタッチがあったのである。
1980年代に大量に作られたDX-7という楽器の音に似たその音は「電子ピアノ」という感じの音色で、
ト長調8分の3拍子。那須高原の若葉の上で、白いスカートを着た少女がイチゴ摘みでもしているような、
その軽やかなメロディーが、4小節目でピアノの指がからまってころぶ。
全部で7小節の短さなのに・・・あとちょっとなのに・・・。
こういうのを演奏上の「ミスタッチ」という。
でもどうして、このテープが後生大事に10年以上も使われているのだろう。
しかしこのテイクは本当にOKテイクだったのかしらん。
それとも東北電力かどこかの社長サマのお嬢サマがお弾きになってらっしゃるとか・・・。
こういう「味」を大切になさっていると言えなくもない。
そういえば同じ頃から盛んに使われるようになったものに、山の手線の発車ベルがあった。
それまでは「ジリジリ・・・」という本物のベルであったと思うのだが、いつのまにか電子マリンバチックになった。
しかも駅ごとにメロディーが違う。
日に何回も何回も使うので、機械がだんだんバカになり、ちゃんと止まるべきところで止まらなかったり、
発車する時にノッキングをおこしたように2度鳴りしたりすると、歩いているこっちまでノッキングしてしまう。
新横浜の新幹線改札口に、絢爛と鳴り響く「キップヲ、オトリクダサイ・・・」の音。
何台かある自動改札機が一斉に叫ぶ。」「キップヲプヲ、オトリトリ、クダダサイサイ・・・」
あんまりうるさいので、キップをお取りするのを本当に忘れたりするから不思議だ。

さてさて、昔から音楽を創る上でかっこうの材料にされてきたのが鉄道だ。
先日仕事場で童謡の歌集を見ていたらオドロイタ。同じ曲が、3曲もある!!
皆さん、「鉄道の歌」と言われてまっ先に思い出すのは次のどれでしょうか。

(1)♪いーまは山中いーまは浜ー
(2)♪おー山の中ゆく汽ー車ポッーポ
(3)♪汽車汽車ポッポポッポ

あーら大変、こんなに有名な曲が3曲も!
(1)は「汽車」(作詞:不詳作曲:大和田愛羅)
(2)は「汽車ポッポ」(作詞作曲:本居長世)
(3)も「汽車ポッポ」(作詞:富原薫作曲:草川信)
誰でも歌詞を見れば口ずさめる。日本人のDNAにしっかり組み込まれていそうな骨太なメロディーだ。
これに明治39年に大和田建樹が作った「鉄道唱歌」を合わせた4曲が、私的「四大鉄道の歌」ということになる。
歌詞をよく見ると(3)の「汽車ポッポ」には「スピード、スピード」なんてカタカナ英語が出て来て、
当時としてはハイカラな歌だったのかもしれない。
「鉄道唱歌」には実に66番までの歌詞がある。発表当時の正式名称は「地理教育鉄道唱歌」といったそうだ。

私も妙に電車に乗ると曲想がハズム。いつかはこれらに並ぶ鉄道の歌を作りたい。

大阪フィル・ポップス・コンサートを手掛けるようになってかれこれ12年。
このコンサートは春と秋の年二回行われ、リピート客も多い。編曲と指揮を受け持つ私の責任は重い。
が、そこは大阪、ブレーンやスタッフのノリもよく、面白いアイデアだとオーケストラの団員達も
乗って来るからやり易い。5年目の10回公演を記念して選曲したのが、ビートルズの「ヘイ・ジュード」であった(???)。
10年目の20回公演の時には同じ曲を「祝10周年!ヘイ・ニジュード(20度)」としてプログラムに載せた。
ならばアレンジは、パイプオルガンまでひっぱり出し、100人のオーケストラで荘厳に・・・と
アイデアの連鎖がおきる。準備は大変で、かつ楽しい。

ところでビートルズの曲というのは、どんなクレジットを見てもかならず、
作詞作曲 レノン&マッカートニー となっている。
小学生の時ビートルズに目覚めた私は、これは作詞がジョン・レノン、作曲がポール・マッカートニーであると
早合点した。そのうち自分でもバンドを始め、徐々に、そう簡単に分業できるものでもないことを知った。
ならば、このフレーズはジョン、この語句はポールという具合に混然一体となって作曲していたのであろうか。
否、実はこの2人は完全に独立して創作活動していたそうである。
そういえばビートルズの音楽は大別して2通りのタイプがある。ひとつはジョン・レノンがリードボーカルのもの。
意味深でアナーキー、淋しがり屋の視点を感じる曲が多い。これはジョンが作った曲ということ。
一方、ポールが作った曲は、リリカルな曲や何げない内容を格調高く表現している曲が多い。
こちらも本人のボーカルなのですぐ解る。
当時、私も若く、サウンド重視で音楽を楽しんでいたので、自由奔放なポール・マッカートニー作品に
深く共感していた。

「ヘイ・ジュード」に至っては世界の音楽の最高傑作だと信じていた。
しかし近年あまりこの歌はショー等では使われない。
内容があまりに個人的で、ほかの歌手が歌ってもサマにならないのだ。
「ヘイ、ジュード(=男子名)、悪い方に考えるんじゃぁないよ・・・」
なんじゃこりゃ・・・そうかこんな内容だったんだァ・・・。
考え方によっては、こんな内容の歌、というのは他にはないからユニークで凄い!とも言える。
しかし十代の頃「ヘイ・ジュード~ラーラーラーラララーラー!!」と日夜盛り上がっていた自分は何だったのか!!
と素直にヨロコベナイ。ジュードって一体誰なんだ。

そんなイケイケのポール楽曲と、シャイなジョン楽曲がミックスされた曲がこの世に一曲だけある。
正確にはいくつか他にもあるらしいが、私の知っているのは「I’ve got a feeling」という曲だ。
映画「Let it be」の中で歌われた。Aメロをポール、Bメロをジョンがそれぞれ作り、合体させている。
この曲が小6の私の一番のお気に入りであった。
偶然にも一番ぜいたくなビートルズの楽しみ方・・・だったのかもしれない。

そうなんです、遭難(?)したんです。
りゅーとぴあ公演を終え、イタリア軒に戻り、朝六時に「ご心配なく、飛行機は飛びます」との報告。

悠々と皆で朝食をとり、いざ新潟空港へ。日本海も雪で真っ白。そんな中「これほんまに飛ぶんかい?」
あれよあれよと言う間に道路も真っ白、視界は3メーター。しかし新潟のタクシーはチェーンも巻かずに渋滞もなし。

空港に到着。いす、ハエ叩き、CD、楽器、譜面、など下ろして建物の中へ。
とその時異様などよめきが・・・「あらっ、アンサンブル・ベガの人たちよ!まあ、夕べの音楽会、素敵だったわぁ」
と、それはそんな優雅などよめきではなく・・・

「ケッコウ」
という言葉にはさまざまな響きが含まれる。
「結構」「血行」「決行」
この場合、そのどよめきの源が
「欠航」
という掲示板の二文字であったことに、いささかの疑う余地もなかった。

今降りたタクシーのトランクに、いす、ハエ叩きなどを、再度上手に積み込んで、向かうは一路「JR新潟駅」
そこから苦難の、一都一府九県を巡る汽車の旅。
空港で買う予定だった加島屋のシャケ、ヤスダヨーグルト・・・
新潟駅で自由席のキップを買い、荷物を持ち、借り物競争のように走った。

9時36分のトキに飛び乗り通路側を確保した。
さっき笑顔で空港へ送り出してくれた親友たち、スタッフ、イタリア軒のホテルマンたち・・・
ああきっと今ごろアンサンブル・ベガが、新幹線にすし詰めになっているとは、夢にも思うまい。

地理教育「鉄道唱歌」
原作は66番まであるらしい。我々アンサンブル・ベガは、この日11番までを身をもって体験した。

「汽笛一せい新潟をはや我が汽車は離れたり

燕の村に積もる雪爆走の音をかき消せリ」

新潟県に始まり、群馬県、埼玉県、東京都

「旅の途中のターミナル解散するならここでしろ

改札くぐって色変わり我が家を車窓に垣間見ん」(宮川の自宅は世田谷区内)

神奈川県、静岡県、

「さっきの荒波日本海眼下に広がる伊豆の海

背中とお腹を見比べりゃたしかに日本は島でした」

愛知県、岐阜県、滋賀県、京都府

「近鉄電車にゃ特急券行列作って買いましょう

ここから叫んで汽車止めて気が付きゃみーんな関西弁」

やってまいりました奈良県へ、一都一府九県の旅。
開演ベルの45分前、申し合わせたようにゴール。所要時間約7時間。
それでも道中作った歌を披露し、笑いあり、踊りありの音楽会。
アンコールも3曲やって、その後東京に帰った自分を褒めてやりたい。

厚い防音ドアーの向こうから、ポロリポロリ静粛なピアノの音がこぼれて来る。
思わずドアーの内側をのぞいて見る。壁一面に貼られた鏡、部屋をぐるっと囲む木製のバー、
入り口付近にはマツヤニを盛ったトレイとトゥシューズを拭くためのぞうきんが一枚。
無味無臭の創作空間、それがバレエの稽古場だ。

初日を一ヵ月後に控えたバレエ団が、「パキータ」という演目の振り付けの最中らしかった。
振り付けをしているのは外国人らしい、コールドバレエのパートを練習していた。
もれ聞こえていたピアノは、稽古ピアニストの日本人女性のかなでるそれであった。
あのグランドピアノはスタインウェイであろうか?いやカワイの様な感じだ。

私がウん十年前、代々木のバレエスタジオ(ある有名バレエ団の)で弾いていたやつはカワイだった。
ボロボロのカワイのアップライトだった。
毎日毎日、そこで生徒たち数十名がジャンプをするための力強い響きを出し続けたのだもの、
しかも右足からが終わったら、左足からだもの…朝2クラス夕2クラスだもの…ピアノだってボロボロになる…。
そのおじいちゃんピアノをイギリスから来たレッスンピアニスト、アリソンじいちゃんが弾いたときは、
まことに詩のようだった。美しくも、せつなくも、楽しくも、すべてにあふれるのはヒューモアーであった。
あの時、自分は「これが私の仕事」と思ったのだった。

それにしても何とここはめぐまれた施設なのだろう。
さっきのぞいた大きな大きなスタジオはバレエの為のレッスンスタジオ。
廊下のこっち側はオペラの為の稽古場、たったいま出て来たヨーロッパ人はマエストロだろうか…。
その他に同じ大きさのスタジオが3つ。中くらいの稽古場(芝居の稽古なら十分)が2つ。
小さな個室的スタジオが6つ~7つ。奥の方にはオーケストラのリハーサルルームもある。
ここは初台の新国立劇場地下のリハーサルフロアー。
こんな夢の様な夢を創るための本当に夢の様な空間が、日本にもあったのだ。
あっちの部屋ではオペラの大道具を作っている。マッサージを受けているダンサーもいた。
そして我らが「星の王子さま」の稽古場もその一角を占めている。
私たちは、オペラとバレエの稽古場に挟まれてミュージカルを作っている。
クリエイティブな時間はジャンルを問わない。

どの部屋も皆、みえないものを見ようとしている。耳をたよりに見ようと必死だ。
見えない時間が見える時間となり、見える様な音楽が湧き上がり、
夢の様な舞台空間がここでは次々生まれていくのだろう。

音楽を楽しんだことがあるお人なら、それがどんなに楽しいことかご存知だろう。

ハモる=ハーモニーを奏でる。

父、宮川泰の説によれば

ド=お父さん
ソ=お母さん
ミ=子供
そしてちょっと寄り道したくなる
ラ=愛人

ということになっている。

これは「ラ」がいかに大切な音かということを説いているのだが、ド・ミ・ソの定義だけでも大いにうなずける。
本来「ド」に一番共鳴する音が「ソ」である。低音でこれを奏でると「お経」のような空気になる。
どこか尊く、深遠で、完全である。
しかしそればかりでは重苦しいときもある。ドゲトゲしかったり、まじめくさった感じもいなめない。
子はかすがい。そこで間を取り持つのが子供である「ミ」というわけだ。
「ド」も「ソ」もとたんに顔がほころび明るくなる。

アマチュアオーケストラ、中でも吹奏楽団にとってはハモりこそ目前のハードルである。
2分の1ヘルツ、4分の1ヘルツ、いや何セントの世界で完璧なハーモニーを目指すという。
しかし、そのハーモニーが達成しうるのは、彼等がすでに同じバンド、同じ学校、あるいは同じ職場などで
苦楽を共にする「家族」であるからに他ならない。
いくら何ヘルツ、何セントでハーモニーを作っても、同じ家族を形成するための、
平和のためのハーモニーでなければ、ハモったようには聴こえまい。
他人同志だっていい、本当の家族のように混じらなければ、本当には混じらないのだ。

家族が出来れば楽しいではないか。
そして誰もが真剣に家族を愛す。
親は体を張って子を守るし、子も、親の身を案ずるではないか。
考えてみて欲しい、同じ職場の他人どうしが、家族になれるのが音楽なのだよ。
見知らぬ二人が、「ド」と「ミ」を奏でたら、その二人は少なからず「平和」に一石投じたことになるのだよ。
「命」に一票入れたことになるのだよ。
本来、宗教、肌の色、国境などを飛び越えるのが音楽。
むしろその垣根を取り払うのが音楽の役目である、と筆者は信じる。

音楽の響きの現場がそのことを実証する。
2005年2月13日、楽器の町=浜松では、「宇宙戦艦ヤマト」を作曲者自らの指揮により演奏する為に、
総勢120名のアマチュア演奏家たちが集った。
土地柄、メンバーの中にはヤマハ、カワイを筆頭にたくさんの楽器メーカーの職員が顔を揃えた。
トロンボーン奏者はヤマハの調律士、フルートはカワイの同業者、ヴィオラ奏者はローランドの人だったか・・・。
こうして商売の垣根を越えた新しい家族が誕生した。

いつかノーベル平和賞を音楽家達がもらう日を、私は願ってやまない。

ダンスキャプテン

1984年オープンを控えた東京ディズニーランドのリハーサルルームでは、連日「フープ・ディー・ドゥー」のリハーサルが行われていた。
東西線浦安駅で電車を降り、5分ほど歩いてバス停へ。グランド・オープンに向けて、商店街もにわかに活気付いている。中でも「ミッキーまんじゅう」はほほえましかった。ここを通るのは今はスタッフ達だけなのに。バスも専用の路線はなく、○○行きの「オリエンタルランド本社前」で降りるのであった。いたるところまだ工事中の、仮設感ただよう社屋のはるか向こうに建設中のディズニーランド、そしてそこへ向かう道の途中、広大なバックステージに格納庫、オペレーションセンター、ワードローブ、リハーサルルーム等が点在しているのだ。

朝10:00時本社入り口でI.D.を見せ、自社バスに乗り換えいざリハーサルへ。バスを降りようとしたその時、マジ兄に後ろから声を掛けられた。
「おはようアキラさん、今日もよろしくね」
マジ兄は日米合同キャストの中でも一番キャリアが豊富な一人であった。誰も見たことのないショーを一から作るのだから、期待感と不安感が常にともなう。稽古ピアノ兼アレンジャーとして入っている弱冠22歳の私から見れば、マジ兄は頼りになるダンスキャプテンだった。

ショーは古き良きアメリカの田舎芝居を再現したものだ。日本で言えば髷物コメディー。日本語英語織り交ぜての寸劇、カントリーソング、お客をまじえての歌遊び、ダンス、楽しい食後のひと時を・・・という趣向。カントリーディナーショーである。日米合作なので全員が初体験のことばかり。
たとえば、英語の早口ソングを覚えなくてはならない。譜面を見て閉口する日本人キャスト達、しばらくにらめっこの後に全員のエンジンをかけるのがマジ兄だった。
「うんも〜う、めんどくさいから全部覚えちゃいましょ、こんなの!はーいみんなマル暗記マル暗記!」
はじめは伴奏する私も吹き出してしまうほどのカタカナ英語。しかも早口だからとても意味などわからない。
それが人間くり返し復唱することでなんとかサマになって来る。一週間後にはすっかり体に入ってしまいもう止まらない。アメリカ人演出家の前で得意げに早口ソングを練習する日本人キャスト達。

こうしてコメディータッチの「デイビー・クロケット」や「シャナンドゥ」などのカントリーソングメドレーなどいくつかのシーンが出来上がった。
演奏はピアノ、トランペット、ドラム、バンジョーという至ってシンプル。いびつな編成だが、「アメリカ」+「いなか」+「ショー」というコンセプトにはぴったりなサウンドを出す。私はスタッフとして参加しつつも、なんとかアメリカのショー作りの感性を吸収しようとアンテナを広げた。私達はいわば東京ディズニーランド一期生なのであった。

一ヶ月の稽古を終え、無事初日を迎えた。二階隅のテーブルをスタッフで囲み、ディナーからいただいて、自分たちの作ったショーを見守った。そこにシャープな身のこなしと笑顔でひときわ輝いていたマジ兄の姿をハッキリと覚えている。

実はマジ兄を知ったのは、それが初めではなかった。
私が稽古ピアノを弾く「スタジオ一番街」で小川亜矢子先生のバレエレッスンを、彼は受けに来ていたのだ。亜矢子先生のもとで、ひとつひとつの「パ」を確かめるように気持ちのいい汗を毎週流していたのがマジ兄だった。
真島茂樹=マツケンサンバIIの振り付け師であり、今なお日本のトップダンサーの一人。

20年後、NHKホールのロビーで再会したときも、マジ兄の存在になんら変わりはなかった。
「うんも〜う、白組の人たちに一人ずつ教えなきゃなんなかったの、もうダメ、疲れはてたワァ」と、言いつつ次の打ち合わせ。
「TBSの方は、こうでこうで、こう出てきて、こっちに行って・・・」「マジ!会いたかったァ!」「アーラ、アキラさ〜ん!!」
私もマジ兄も、この日再会できることを楽しみにしていたのだ。
すでに「上様」松平健さんとの再会をはたした私と、マジ兄とのさらに古い再会を健さんは無言で見つめておられた。

『そうかマジ兄は今でもスターの影にピッタリとはりついて、みんなを乗せたり、引っ張ったりしているんだなァ・・・』
そうやってショーは作られる。それぞれが役目をはたし、生み出されていく。

ダンスキャプテン。一流振り付け師となった真島さんだけど、彼には今でもそんな称号がよく似合う。

冬のマグマ
薪に火がつく瞬間、ストーブは「ボムッ!」という音をたてる。薪は燃え出したら最後、もう誰にもその火を止めることはできない。以前から栃木の山荘でこの瞬間を見届けるたび、私はあることを連想してきた。
世の中にはブームという火をつけようと躍起になり、あれやこれやと仕掛けを施し、最先端のテクニック等を使い、全身風向きのアンテナと化して右往左往する輩が、それはそれは大勢いるのだろうと想像をふくらませる。ブームやブレイクという言葉とは無縁であった私でさえ、「いったいどうやったら」それが起こるのかを考えるのは意外と楽しく、愉快な時間であった。
ストーブの薪を燃やすには何といっても手順がある。
火がつきやすい様に燃料をくべる。まず必要なのは古新聞。ちいさくちぎり、まるめて小山を作る。次にダン
ボール。これもちぎってねじったり折ったりして小山に厚みを加える。次に木っ端(コッパ)。廃材をナタで割ったいくつもの細長い積み木の様なそれを、インディアンのテントの様な形に立てかけていく。いかにも燃えそうなセットアップが完成し、最初にくべた古新聞目指してマッチ棒を差し込めばああらお見事、マッチの火は時間差で次々と外へ向けて大きく広がり、やがて木っ端の館に火がうつる・・・。
しかしめでたく木っ端に火がついたからといって、ストーブの扉を開け、すぐさま薪を放り込んではいけない。ストーブ自体まだなまぬるく、そこへ冬の外気で冷え切ったくぬぎやコナラのたくましい薪をゴロリと入れたならば、木っ端の火はたちまち鎮火してしまう。木っ端の火がオキになるまでじっと待たねばならない。
「オキ」というのはボーボーからジクジクに火がすすんだ状態を言う。炭が良くイコるのに似ている。ある瞬間、気付くと表面的だった炎が内面を照らす炎へと移行しているのだ。このタイミングを見計らっておだやかに素早く、自信と確信をもって薪をくべなければならない。
さて次の瞬間空気の流れを全開にし、木っ端の寿命の尽きるまであおることあおること・・・。扉のスキマを細くすれば空気はものすごいスピードでかけめぐるし、一瞬閉めれば、全体が均一にオレンジ色に染まる。
つまり開けたり閉めたりがふいごの一吹きになり、やがてストーブというマグマはその時を迎える。「ボムッ!」というニブい響きとともに2~3㎏はあろうかという木の塊に火が回るのだ。
さて、こうなると安定飛行、炎が一人歩きをはじめる。ほうっておいても冬のストーブは、幸せのマグマを放ち続ける。
固形燃料など使ってはいけない。そこに必要なのは紙と木と空気。それだけだ。炭火を装う焼肉屋だって、下からガスであおっているではないか。そんな物を使っては火を汚す。
30年も40年も芸を磨き、薪を良く乾かし、余計なことを考えず決して急がず。気の流れを気持ちよく、小さな心を見のがさず・・・そんな人間ニ、ワタシハナリタイ・・・。
2004年12月29日、10年の歳月を経て私は「上様」と再会する。

歌を生み出す場所

マツケンサンバの猛威(インフルエンザみたいだナ)はいよいよ凄まじく、先日は某テレビ局の主催する歌謡祭にて賞をいただいてしまった。その授賞式と言おうか、いわゆる大賞番組を20年ぶりに直視した。20年・・・いやもっと。この手の番組から私は遠ざかっていたのだ・・・。
私の記憶に鮮明に残っている受賞風景といえば、ジュディ・オングさんやら,寺尾聰さんやらのそれである。
そのまたはるか昔かしら、和田アキ子さんが受賞された時、涙でぼろぼろになって、でもイントロが始まるとシャキッと目を輝かせて一ヶ所もブレずに歌ったのを覚えている。

番組の中に、歴代のグランプリ受賞者のVTRを次々と見せるコーナーがあり、あっという間ではあったが、これがなかなか面白かった。「歌は世につれ・・・」なんて言葉は、戦前と戦後の歌謡を顧みるときに使われる言葉とばかり思っていた。さにあらず。ここ20年の受賞曲の羅列を見るだけでも、歌謡がいかに変遷を遂げてきたかがよくわかった。

私は兼々「歌を生み出す所」が歌謡界というステージだと思い込んでいた。たとえばその昔、戦後と言う時代に色を与えたのは服部良一という作曲家であり、幾多の作品であったはずだ。中村八大という形容しがたいほどの天才と、「上を向いて歩こう」という楽曲は未だに歌謡界の金字塔だと。宮川泰、「バラが咲いた」の浜口庫之介、「おふくろさん」の作者猪俣公章、時代は飛ぶが「喝采」の中村泰士・・・・・・みんなそれはそれは色っぽい艶っぽいメロディーを残していた。私から見れば主役は「歌」であり、産みの親である作曲者はスターであったのだ。
フィンガー5を聞いたときの、都倉俊一という作曲家の存在を知ったときの衝撃は強かった。彼こそ「作曲者=スター」という単純な方程式の完成型と言えたのではないか。それくらい素敵な歌を彼は作ったのだ。

時代は流れ、「流行歌」という概念は残ったが、「歌謡曲」という言葉は意味を失った。

我々はスターの授賞式を見る、どんな娘なのかを観る、どんな青年達かを観る、その生き方や考え方の一部が彼らの歌う歌(流行歌)ではあるが、それはすでに歌謡ではない。我々はスターを見る、スターを聞く、それはスターを生んだ「歌」を聞くのとはちょっと違うと思えるのだ。なんとなく私の心にまでは遠く、心をつかまれる感覚とはほど遠いと思えてしまうのは時代のせいだろうか・・・。

ひとつだけ確信を持って言えることがある。
昨日の番組を見てお気付きになった方も多いのではあるまいか。その受賞番組からはオーケストラが消えていたのである。たとえ何万人の中で披露しようと、何百万人がテレビを見ていようと、それでは本人たちによるただのカラオケ大会に他ならない。その瞬間瞬間に生まれた「音」こそ人の心を惹きつける、本当の「時代の音」「時代の歌」となりえるのではないだろうか。

どうせなら紅白歌合戦ぐらいは全部生演奏でやったらどうだろうか、今年は大晦日に期待するとしよう。

 

オーレーはフラメンコにあらず!

なんでサンバに「オーレー」やねん?
と、お嘆きのあなたにお答えしましょう。
この「オーレー」はフラメンコの「オーレー」にあらず!当時流行っていたJリーグの「オーレー」がヒントであると筆者は推測します。サッカーといえばサンバ、サンバといえばサッカー。1994年といえばJリーグ発足の翌年じゃあ〜りませんか。そうです、「マツケンサンバ2」はあのころ誕生したのであります。

それから十年・・・

ちょうど十年目のある日、仕事場の電話がけたたましく鳴りました。
「このたびマツケンサンバのCDが一般発売されることになりまして・・・」「ほう、そうですか!(知ってますよ、テレビでやってたのを友人の俳優さんが、楽屋で教えてくれました)」「付きましては・・・マスターテープ・・・そちらに御座いませんか?」「え・・・?そ、そ、(そんなもんない)いや〜うちには・・・(まさかそんなもんないよ!)」「そうですよね!他を当たってみます。」
ちょっと不安になりました。こんなことで本当に一般発売に漕ぎ着けられるのでしょうかと。
そんなことがありましたので、それからの数ヶ月間は大層じらされました。

アマゾンの予約でトップ・・・
連日のワイドショー・・・
駄目押しは、息子が道端で拾ってきたマツケンサンバのバッジ・・・(巷ではこんなものまで・・・)
しかしうちにはその後なんの連絡もなく、本当に自分が作った曲なのかもにわかに信じられなくなってきたある日・・・
ついに送られてきた一枚のCD(正確には2枚)!
音を聴くどころか映像を見るどころか、いの一番に私がしたのは作曲者の名前をチェックすることでありました。
そこには紛れもなく「宮川」の紋所が・・・
ああよかった、やっぱ自分の曲だった(^^)/ 字も間違ってないし・・・(よーく淋良とか湘良とか書かれるのよねーここだけの話)
久々にCDというものを何度も聴きました。何度も何度も聴きました。小西さんの作品もとてもよかった。流行にはとんとご縁のない自分にも、彼のセンスの良さはよく解ります。映像が眼に浮かぶという点と、聴こえてきた音を作品にするという点では、私のいつもやっている仕事と全く一緒。ただただ奇をてらうのとは違います。

ああとにかくよかった面白かった、DVDも想像以上の代物でした。
一日中聴いていたかった。

「オリジナルコンフィデンス」
未だにこの言葉にピリッとしてしまう自分。芸大にも入れたし、アレンジでも仕事をし始めた20代の自分に鋭く突き刺さる、マイ父親からの一言。「晶(本名)もあとはヒット曲だな」

父の頃とは時代も変わり、レコードからCDへ。自分の書きたい音楽が必ずしも売れる音楽であるとは到底思えなくなっていたあの頃。歌謡でも映画音楽でもCM音楽でもなく、「舞台」の上に活路を見出していった自分。そこから新たにすべてを学びすべてを注ぎ込んだ20余年。
そしてその「舞台」から生まれた音楽が(ここが肝心だ)、巡りめぐってあの雑誌に載ったのだ。
そんな自分史。そんなコンプレックス。この嬉しさは父には解らないだろうなぁ。

2004年。私はとても元気。 将軍様、10年歌い続けてくださって本当にありがとう御座います。この次は是非ご一緒に「時代劇オペラ」を作ろうじゃ、あ〜りませんか!

 

マツケンサンバ2の誕生

1994年9月、大阪新歌舞伎座公演「松平健・唄う絵草紙」の作曲依頼。(宝塚関係者からの紹介ではなく、演出家H先生からのご紹介)
早速有楽町でショーの音楽打ち合わせ。 オープニングはオリジナル曲、歌詞をいただく。そこから群舞、連舞、長唄、俗曲などおりまぜて、約一時間のショーを構成する。

ショーの中盤は、健さんのオリジナル歌謡曲コーナー。ここは既成のカラオケを編集して使うの何のと、一通り録音の段取りまで見渡して打ち合わせも終わろうかというその時、プロデューサーN氏から折り入ってのお願い。
「実はショーのラストにもう一曲、宮川さんに作っていただきたい曲がありまして・・・」とN氏。
「はいはい(えっ?まだあんの・・・)。」と私。
「松平のショーの最後に必ず歌う曲がございまして、ここ数年同じ曲を使ってましたんで、ここらでリニューアルしようかと・・・。題してマツケンサンバ・パート2!」
「はあ(さんば?サンバ?三羽?)・・・」
日舞のショーの打ち合わせの最後に「サンバ」はいきなりであったが、とにかく派手に、豪華にということで、この日打ち合わせた予算はもう一度見積もりし直す事になってしまった。作曲はもちろん、できれば作詞も・・・という依頼だけは固く辞退してその日は引き上げた。

それにしても着物で、悪代官から切られ役のお兄ちゃんまでが総出でサンバを歌い踊る、というアイデアが強烈だ。あまりに強烈でショー音楽を専門にしていた当時の私にも、うまくイメージできなかった。

十日ほどしてファックスで歌詞が送られてきた。A4の紙にびっしりと書かれたその歌詞は一見して「長い!」という感じがした。日ごろミュージカルなどの曲作りを多く手がけていた私は、いかに日本語が音符に乗りにくく、たくさんの言葉が英語に比べると入りにくいかを感じていたのでそう思ったのであった。シンプル・イズ・ベスト。こりゃ参ったなぁと歌詞を読み始める。
「叩けボンゴ響けサンバ、踊れ南のカルナバル・・・」
いやはや内容は至ってシンプル、これならなんとかなるかな〜と想いを馳せ、イメージを膨らませる、そんな助走や予備段階は一秒もなく、瞬間的反射的にメロディーが浮かぶ。歌詞を読み終えた時にはもう曲が出来ていた! (といったら言いすぎだが、そのぐらいこの曲は速かった)結局紙いっぱいの歌詞を、一語も削ることなくメロディーは完結した。

第二回目の打ち合わせ。この日は舞台監督のT氏も同伴。「なかなかいいでしょう、マツ健サンバ・2。」と私。歌ってお聞かせする。
「う〜ん、あとはオーレー・オーレーの後のブレイクやね。」とT氏。「???」「だから、そこでジャンジャン!て止まらんと次のマツケンサーンーバーが生きてこんでしょう。」「ははあジャンジャン!でブレイクして、マツケン〜・・・な〜るほど!!!」
でもなんで舞監のあんたがダメ出しすんねん、と0.5秒思ったが、あまりにももっともなアイデアなので楽譜に二拍付け足した。

10月10日、録音の日がやってきた。私は当時遅書きで知られていたが、この日の譜面はめずらしくすいすいと書き上がり、スタジオでミュージシャンたちを待ち構えた。
予定通りに録音は進んだ。マツケンサンバ・パート2の番が来た。この曲に限りトランペットやラテンパーカッション等が加わって、スタジオ内は30名のミュージシャンで溢れた。
ショーの録音はたいていこの30名が「せーの!」で演奏する、いわゆる同時一発録音。「1,2,3,!」の掛け声でスタジオ中にニュー・マツケン・サウンドが響き渡った。
指揮をした私は特にあのジャンジャン!のブレークのところがたいそう気に入った。正確には「ジャンジャン」ではなく「ジャカジャカジャン!」に変更したが。
ああ楽しかった!いい湯加減でした! と興奮覚めやらぬまま調整室へ。にっこりと出迎えてくれた舞台監督のT氏に感謝の握手。とにかく「マツケンサンバ・パート2」はここに誕生した。

歌入れの日に初めて将軍様にお会いした。将軍様はマツケンサンバ・パート2がたいそうお気に召したようで、「よくこんな曲が作れますねえ。」と最上級の賛辞を下さった。

さて何はなくてもマツケンサンバの生命線はあの振り付けである。舞台稽古で私は正直ぶっとんだ。そこに居合わせる、誰もが思わず頬ゆるませる、キュートでセクシー、ハッピーで大胆で大真面目なマツケンサンバをそこに観た。これぞショービジネスの王道。さらに紛れもない「アキラ・サウンド」がそこにはあり、私はなんとも幸せな時を過ごしたのだった。

10年後巻き起こるプチ社会現象などこのとき知る由もなかった。

長い人生の中で、出来事はそれぞれ、何かの為にやって来る。今それが起きたという事は、必ず何かの為に起きたのだ。その時その意味が分からなくても、人は後からそれを知る。

長い間音楽をやっていると、音楽にも役目があることが分かってくる。音楽家にも役目があり、その時演じる音楽にも何かの役目がある。

心と心を結ぶための音楽
己と先人たちの魂を鎮めるための音楽
地球の眼、宇宙の眼で我々を見つめ直そうという音楽
祭りの夜、生きていることを確認し合う音楽

一度にそのすべてを感じた夜だった。一度にそのすべてが通じた夜だった。

声明は、日本の音楽の始まりであるらしい。お経よりも雅楽に近い。島歌は今や、沖縄の「島」の意味から、日本の「島」を意味する楽曲に成長した。
ジュピターを歌う平原綾香さんは、私の友人「フラットさん」の愛娘である。原作曲者のホルストは、百年前に心の耳で宇宙旅行をした人だ。彼女の歌でこの曲は蘇った。
上田正樹さんの歌は昔から好きだった。私の大フィル・ポップスのアンコール曲は、いつでも「悲しい色やね」。あの曲のおかげで私のコンサートはスタートできた。
チベット出身のバイマー・ヤンジンさんは愛すべき大阪人。その声の響きを一声聴いた瞬間、私はファンになった。
五木ひろしさんの「ふるさと」を聴き思わず引き込まれた。五木唱法は遠くを想い、古きを尊ぶ歌い方だったのだ。

人はみな、その瞬間瞬間を、何かの為に生きている。それぞれの瞬間が集うとき、何かの役目を果たすとき、大きな人の花が咲く。2004年5月、アジア・ハートフル・コンサート。私の記憶にしっかりと残るだろう。

喪主は27〜8才の若き作曲家、妻はバイオリニスト。亡くした我が子を見送るために、ささやかな葬式が営まれた。
ささやかとは言い様で、その実2LDKのマンションには入りきらぬほどの弔問客が訪れた。さぞやご近所迷惑であったろう。しかし喪主の胸中には、生後2ヶ月の赤ん坊の最後を一人でも多くの人に見てもらいたいという願い以外は何も存在し得なかった。牧師さんの力のこもった説教と讃美歌のあと、居合わせた皆で童謡の「ぞうさん」を合唱した。

たしか童謡「ぞうさん」には戦時中の上野動物園の象にまつわる悲しい話があったはずだ。童謡唱歌に限らず、歌にはそれ自体の悲しい生い立ち、ストーリーが隠されていることが多い。
中山晋平の名曲「しゃぼん玉」には、まさに我が子を亡くした者の想いが込められている。この曲は、作詩の野口雨情が何番目かの子供を失ったときに書かれた曲である、と知ったのはいつのことだったか・・・

2LDKでのこの悲しい葬儀の後、作曲家である喪主はそのことを知り、以降「しゃぼん玉」こそ我が家のテーマソングだ、と、お得意の大いなる勘違いを始めた。彼は四十を過ぎても未だに自分の創作の原点は「しゃぼん玉」と思い込んでいる。
自称しゃぼん玉研究家である彼の持論はこうだ。

1、しゃぼん玉の「たま」は魂の「たま」である
2、歌詞の最後の「しゃぼん玉飛ばそ」の件には、それでも飛ばすことに前向きな、作者の気持ちの大きさが現れている。
3、あっけらかんとした覚え歌の、本当の意味を大人が知ることで、より深く心に刻まれるということを作者は承知している。
4、この曲のモデルとなったのは、讃美歌の「Jesus Loves Me」である・・・など等。
以来この話題になると、話は尽きない。

一番重要なことは、歌は「歌いたい気持ち」「歌でしか表現できない気持ち」から生まれる、ということだ。政治なら声高に叫べばよい。説教なら粛々と、講義ならクールに、それぞれ言葉で伝えればよい。それぞれ素晴らしい言語の文化である。
だが言葉では伝わらぬ心のほうが人間には多いではないか。
自分の肉親を失った悲しみを、歌以外の何を持って伝えられよう。遠く離れた祖国を想う気持ちを、自分も生きているんだという実感を、はたまた平和を腹の底から願う時、いったい「芸術」以外の何がその役目を果たすというのか。音楽は魂を鎮め、また魂を開放する・・・まさに音楽こそ超能力。

私の知る限り、あのお葬式の「ぞうさん」ほどか弱く、か細く、消え入りそうな合唱は他にあり得まい。私の聴いた、世界で一番小さな音。

そしてそれ以来、「しゃぼん玉」の中山晋平こそ私の目指すべき音楽家となった。

「こころざしをはたして、いつの日にか帰らん」
このフレーズを胸に、遠く異国の地に散った何万何十万という兵士たち・・・

歌は平成の世に生きる私の心に、彼等の地獄の叫びを映し出す。この「故郷」という歌の指す「ふるさと」とは何か。
もちろん彼ら兵士たちを育み、包み込んだ日本の大自然「野山」や「川」を指している。出兵し異国に渡った彼等は、戦場のどこでこの歌を思い出しただろう。夜営するテントの中だろうか、行進する歩幅のあいだにだろうか。
否、この崇高な讃美歌調のメロディーは場所を選ばず、たとえ最前線の突撃の瞬間、砲弾の爆音を背景にしながらでも、彼等の脳裏に響き渡ったに違いない。

さまざまな論説を生み、未だに日本人のあいだで一番思い入れの深い唱歌として歌い継がれているこの「故郷」
私はこの歌に、奴隷制社会の生んだアメリカのゴスペルや、デキシーランドジャズにも似た、音楽の重さを痛感せざるを得ない。その重さは、昭和に作られた軍歌の重さとは明らかに異なる。

この曲の作曲者=岡野貞一は、教会のオルガン奏者であったという。彼の「故郷」のメロディーには、日本臭さ、日本独特の孤独感、無情感、といったものがまるでない。一体これが日本の曲?というほど卓越した西洋音階のセンスを持って出来ている。
このメロディーにのせて、高野辰之の歌詞を口ずさむとき、志を果たすという大和魂的な強い意志よりも、もっと大きな神の視点からの許しが感じられないか・・・。志半ばに散った命の、無念よりも鎮魂の空気が漂っていないか。己のための讃美歌を歌いながら殉職していくなんてことが、我々人間にはあり得るのだろうか。この歌の効用はあまりに壮絶、美しくも惨すぎる・・・
これが戦争における音楽の役目なのだろうか。己を育んだ「ふるさと」、そして目前の敵国の「ふるさと」・・・
不条理の極みは、彼等を狂気へと導いたであろうし、叫んでも叫びきれない無念を残したであろう。どうやら「戦争」こそ「音楽」と対峙する、最も愚かな「非・芸術」であるらしい。

今一度、私は作曲家としての責任を問いただす。「故郷」の美しいメロディーから見つめ直す。今の私にはそれがせいぜい出来ることか。
果たせなかった志、無念の叫び、オルガンの音色にのせて、安らかに眠らんことを、ただただ祈る。

 

「はい、宮川彬良の付き人の浜中です」
電話の応対には必ずそう答える青年がいる。付き人になり約一年、自分から「付き人です」と、元気よく答えられるのはちゃんとプライドをおもちだからなんでしょうね・・・と、世界的歌手のキム・ヨンジャさんにお褒めいただいた。NHK大阪制作の歌番組の公開録画を無事終了してのことである。

今日の公開録画は彼、浜中青年にとっては忘れがたい一日だったに違いない。というのも、今回彼は、東京で私が編曲し写譜仕上げた大切なパート譜を、大阪まで携え無事届けるという役目を果たしたからだ。今回の楽曲は5曲、編成はストリングスを中心とした約30名のオーケストラ。編曲にてこずり、本番収録の朝写譜が上がった。そこで私とともに大阪へ向かう「付き人」浜中青年が、袋いっぱいのパート譜を手持ちで局に納品するという大役を仰せつかった、というわけだ。

「いやあ、緊張しました・・・」 確かに彼は、袋を大切に膝にのせ、胸に抱えるようにしながら車を運転し、新大阪からのタクシーでも先方に現在地を知らせる、という念の入れようであった。現金じゃあるまいし、何もそこまで、とお思いだろう。 しかし彼の答えはこうだ。「いやあ、現金なんてまだマシです、いざとなりゃ借りられます。」
確かにそうだ。現金なら日本全国皆同じである。しかし私がこの一週間、ろくに寝ないで考え抜いた大切な「音のシナリオ」と、それをオーケストラのメンバー全員のために写し取った膨大なパート譜を、どこかに置き忘れでもしたら代わりが利かない。そこには編曲家と写譜屋さんたちの費やした時間が凝縮されている。楽譜とは、即ち、時間の集積なのだ。

私にはもともと、スコアーを書くときの方法論がある。それはプレーヤーひとり一人を役者に見立てて書く、音の戯曲化である。編曲者は演出家、兼戯曲作家で、各パートの役者のためにひとつずつせりふを与え、音楽を編んでゆくというやり方である。
たとえば仮に、今ホルンに休符が与えられているとする。このときホルン奏者はただ休憩をしているのではない。次のフォルテでプァーっと意思表示するために、他のパートの意見を慎重に聞いているところである。次の瞬間にどんな意見をどんな口調で発するのか、それを考え連ね、一つの音楽パラダイスを構成していくのが私の役目である。ひとつのせりふを思い付き、スコアー用紙に書き込むまでに、頭の中、鍵盤の上で何度も何度もその時間の流れを追体験する。一曲わずか三分半のスコアーの中にはこうした計り知れない時間の集積があるのだ。

その完成したスコアーをパート譜に書き写す、写譜という作業がまたすごい。どっから見ても製本され売られている譜面と変わらない、見事な楽譜に仕上げるプロ集団が存在する。彼等の職業を「写譜屋」という。
彼らは写譜ペンという独特のペン先を持つペンに、昔ながらのインク壺にインク消しを用いて、信じられないくらいの猛スピードで原稿からパート譜を起こしてゆく。編曲が夜中に上がれば明け方までに書き上げ、責任を持ってスタジオまで届ける・・・というのが彼等の仕事だ。編曲家と写譜屋とは常に信頼関係を保ち作業をこなしてゆく。ミスは許されない。こんなスペシャリスト集団が、東京にもいくつか存在するのだ。コンピュータの台頭で一時その存在が危ぶまれたこともあったが、彼らの鮮やかな技術とスピード、そしてその責任感は、コンピューターには遠く及びの付かぬところである。

こうして袋いっぱいに詰められた沢山の楽譜たち、単なる一週間に収まらぬその時間の集積を胸に、付き人青年は600キロの旅を終えた。
「いやあ、写譜屋さんって、これ毎日やってんですよね・・・」
頭掻き掻き青年は、ほっと胸を撫で下ろすのであった。

トラックのテールランプ、白が灯れば「バックします・・・・バックします・・・・」
オレンジランプだと「ひだりへ・・まがります・・・・ひだりへ・・まがります・・・・」
あの女の人はどこに乗っているんだろう・・・江戸時代の町人ならきっとそう思うに違いない。

あのすっとんきょうなな声は、決まって女性のしかもメッゾ・ソプラノである。機関車トーマスやディズニー絵本の○○君(注;一番下のイラスト参照)の様に、おしゃべりトラックにしたいのなら、男の声がお似合いだ。そうなりゃ街がマンガチックであふれかえる。
関西あたりで始まっても不思議はない。クラクション、押せば関西系バリトンのお声で
「ほらぁ、はよどかんかぃ!・・・・ほらぁ、はよどかんかぃ!・・・・」
テールランプ、白だと
「ひかれるでぇ〜・・・・ひかれるでぇ〜・・・・」
街は無用の音にあふれている。

一番耳に焼き付いているのが新幹線の改札である。
「キップヲ、オトリクダサイ・・・・キップヲ、オトリクダサイ・・・・」
たとえば新大阪駅で、新幹線から在来線に乗り継ごうという時、決まって通る改札があるのだが、そこではのべつ幕なし、この「キップヲ、オトリクダサイ」がこだましている。出口と勘違いして、切符を取らずに通過してしまいがちなのだろう。改札はざっと見渡すと十はあるだろうか・・・すべて自動改札。
一台何百万円もしそうな改札器には、おそらく一つずつスピーカーが取り付けてあるねん、んで中にな、一人ずつ女の人が入ってんねん、んでマイク握ってな、「キップヲ・・・」
って・・・んなわけないやろ。

でもスピーカーは付いてるのでしょう、おそらく。一台に一つ、計十個のスピーカーから「キップヲ・・キップヲ・・」と流れ出すその音が、どんなに小うるさい大合唱か。しかもおんなじ声で十人分、合唱のタイミングは指揮者がいるわけでもなく、切符を入れるお客のタイミングに任されているわけだから、微妙なカノンをかもし出す。

十声のメッゾ・ソプラノの為のポリフォニー、無伴奏カノン《キップヲ、オトリクダサイ》 作曲JR関西(の、お客さま)

関西でのコンサートの翌日、私はこんなことを考えながら新幹線に乗り込み東京に向かった。
なんと新横浜駅にも同じ様な改札器があり、台数も音量も少なめではあったが、ここでも四〜五声部の立派なポリフォニーをかもし出していた。

「キップヲ・・・・「キップ・・・「ダサイ・・・キップヲ
  「キップヲ・・・・「キップ・・・「クダサイ・・・キップ、クサイ・・
    「キップヲ・・・・「キップ・・・「オキップトリクサイサイ・・・
       オトリクダサイ・・・」オトリ・・・」「サイ、サイ、sai.sai.sai….
         オトリクダサイ・・・」オトリ・・・」
           オトリクダサイ・・・」オトリ・・・」

それはすでに、伝達のための音ではない。また単なる雑音とも異なる。むしろ経文や念仏のごとく、雑念を取り払う役目に近い。確実に「右脳」に刷り込まれていく。この時私の脳も、「左脳」は全然働かなかったらしく・・・

なんと私は、キップヲ、オトリするのを忘れて通過してしまった。

テレビには気をつけていただきたい。
あなたは今、テレビを見ている。NHKの歌番組、公開生放送の真っ最中である。
しかし、あなたの眼の前で起こっていることが、中継現場で起こっていることのすべてではない。
たとえそれが生放送の映像であっても、現場のナマはもっとナマナマしい。
テレビの画面には決して映らぬ、最高に大掛かりでユニークな映像に、私は仕事柄よく出くわす。

「わが心の大阪メロディー」というNHK大阪支局の制作する番組でのひとこまである。
NHKという団体はいくつもの支局に分かれている。
全国放送されるほとんどの番組は、東京本局で制作されているのだが、各支局にも割り当てがあり、
この「わが心の大阪メロディー」は大阪支局の芸能班が制作する、全国放送の歌番組である。
当然制作する側にも力が入り、当日の出演者の顔ぶれも豪華そのものであった。
大物歌手が一同に会し、持ち歌は歌わずに、大阪ゆかりの歌を熱唱するという内容である。
当然演奏も生演奏、約30名のミュージシャンが東京から呼び寄せられた。
私もショーの中の一部分の演奏に加わった。
デキシーバンドの衣装をまとい、中央に据えられたオーケストラとは別の引き枠(ワゴン)に乗って、今か今かと出番を待った。

自分の出番が来ると、このワゴンがスタッフたちの手動で動き出し、舞台中央でピタリと停止する。
こうした舞台転換はこの手の歌番組ではよくある手法だ。
たまに環状線の様に行き過ぎて停車し、ちょこっと戻ったりすることもあるが。
とにかく多数の音楽家と大切な楽器たちを乗せた、木枠が大勢の男衆に押されゴロゴロ動くのだから、
祭りの山車の様に豪快で、けっこう楽しい。
私のデキシーバンドの方はピアノ、バンジョー、クラリネット等せいぜい5〜6人だが、
30名のオーケストラを乗せたワゴンの方は何とも壮観だ。
このあたり、テレビに映るのは正面の画なので、山のように配置されたオーケストラが、
実は巨大なワゴンに乗せられているとは気が付かない。
が、この山は動くのである(もちろん人力)。
右のワゴンには、指揮者をはじめ15人ほどのリズム隊にブラス隊、左のワゴンには弦楽器。
もちろんこれに乗り切れなかった楽器も多数ある。
ティンパニーは右の袖で、マンドリンとコーラス隊はなんと奥の楽器倉庫の中で、それぞれ演奏していた。
これこそ演奏者に対する虐待と思いきや、タキシードに着替えずにすむのでけっこう喜ばれたりしているのがまた面白い。

さて、私とすれ違ったのは左の弦楽器のワゴンだ。バイオリンが8名、ビオラ、チェロが各2名このワゴンには乗っている。
バイオリンという楽器、プロが使うものといったら、うん百万円は下らない。
うんの字の中身は桁の後半から、次の桁にかけて・・・といったところか。
すなわち、今このワゴンの上には、12名の演奏家と、総額一億円ほどの楽器が乗っかっているのである。

いよいよ私たちの出番、デキシーバンドのワゴンがゴロゴロと押し出される。
と、それまで舞台中央に据えられていたオーケストラの山は左右になき分かれ。袖の中へと押しやられる。
弦楽器群の乗った山は高さ約2メートルはあろうか、演奏者がテレビに映り込む様に、スタジアム状にそそり立っている。
こりゃまるで宇宙船艦ヤマトに登場する「白色彗星」か、豊島園ゆうえんちのパイレーツか・・・。
いらんことを連想させる巨大さであった。ゴロゴロゴロ・・・ ワゴン同士のしばしのご観覧。
行く人来る人すれ違い、見下ろし見上げてグッドバイ。
こちらは晴れて舞台中央に出たのであるが、今見た光景があまりにもユニークで、胸焼けしそうだった。
言っちゃあ何だが、こっちの画の方がはるかに面白い画だったぞ。

音楽に携わっていると、特にエンターテイメントの現場では、実に様ざまな場面に出っくわす。
歌番組の伴奏は、その中でも過酷を極める。
聞くところによると、音合わせだカメリハだと一日に延べ90曲演奏することもあると言う。
が、楽屋では和気あいあい、誰一人愚痴など言わぬ。
プライドと誠実さを保ち続けるのがミュージシャンの心意気、一流の証である。
画面に名前すら映らぬ沢山の音楽家達が、巨大なワゴンに乗せられて・・・
それでもけっこう楽しんでいることを、是非とも心に留めていただきたい。

 

ロンドンの風は冷たい。それに乗じて人々の生活の空気も、クールでマイペースな感触である。
たとえば地図を片手にした東洋の青年が路頭に迷っていても、あちらから声を掛けてくると言うことは、まずない。

散歩がてら、目抜き通りに面した芸術学校の作品発表を観た。
いきなりホールに輪切りにした牛・・・を、アクリルのケースに収め、天井から吊ってあった。
これが芸術かぁ。
あるコーナーには薬局か治療室のような大きな薬棚、薬がいっぱいに並べてある。そのまんまである。
どうやらこれも芸術らしい。
発表会のタイトルは「ザ・センセイション」いやなら帰れ、と言われているような寂しい気持になって来る。
まあいい、ここはロンドンだ、好きにおやんなさい。
どうすれば人が喜ぶとか、気に入られようとか、とりあえず何事にもウエルカムで「Hai! What do you like?」と
擦り寄ってくるような気配は、ここにはまるでない。これが未知の都市、ロンドンの第一印象である。

どうも私は外国が、特に都会が好きでない。二十年前、初めてニューヨークに行った時も、とにかく空気が埃っぽくていやだった。
これはきっと、自分が都会育ちのせいだろう。自分にないものを見つけに、知らないものを観に外国へ行くのだから。

ロンドンへは仕事のご縁で、三回ほど行かせてもらった。
一度目はロイヤルフィルによる「日本の叙情歌」というC.D.の録音に立ち会った時。
この時の演奏も、えもいわれぬほど美しいのだが妙に素っ気無い。何か物足らず、私の編曲のせいかと首をひねった。

二度目は「身毒丸」の上演のため、バービカン・シアターという国立劇場を訪れたときである。
このバービカンという劇場はすごかった。芸術の為にありとあらゆる工夫が凝らされていた。
私が目にしたものでブッタマゲタのは音響設備だった。
これはまだ当時テスト中とのことだったが、設備担当のおじさまが詳しく説明してくれた。
まずオーケストラ・ピットの中の壁から、エアコンのリモコンのようなものがぶら下がっている。
というより、電気マッサージ器に付いてるスイッチ、有線の、あんな感じのものだ。
そのスイッチには5つの押しボタンが付いていて、左から順に「strate play」「musical」「opera」「ballet」と書いてある。
もうひとつは「cancel」だったと思うが、その内の「musical」のボタンを押してみるとわずかに劇場の響きが変化した。
右に行くに従って、ホールの残響音が深くなっていくのが明らかに分かる。
この劇場では、演目に合わせてホールの響き具合を選べるという訳だ。

なんとここ劇場の中では、「満身創意」サービスに徹している。お客の目線、耳触り、劇場までの導線も分かりやすい。
全館バリアフリーは勿論、なんせ台詞の響きまで変えられるのだもの。もうここでの失敗作は許されない。
後は作品次第。
なんならお前やってみるか?という雰囲気である。やっぱりこの国一流の「ウエルカム」、が漂っている。

この音響設備、要は電気仕掛けである。
どこかに空気の音を拾うためのマイクが仕込んであり、あらゆる角度に埋め込まれた沢山のスピーカーからその空気の音を、
それとない音量で流しているのだろう。理屈は分かる。誠意も分かる。
しかし本当にやる、やってしまうという実行力には恐れ入る。
日本の劇場関係者にこの話をさんざんしたが、こんなことやろうという余裕のある劇場は日本にはない。
正に上演の国、劇場の国、イギリスならではの設備であった。
古くから音楽を、ドイツやフランスの貴族の下から庶民のもとへと開放してきた歴史が感じられる。

この時の=「身毒丸・ロンドン公演」はすべてが成功し観客を魅了した。ように思えたのだが、新聞評による音楽の評価は散々であった。私は今でもそのことが悔しくてたまらない。
いつか世界中の批評家どもに評価されたい・・・なんて思うのだが、それもよく考えると意味がない。
優等生になりたいわけじゃないものなぁ。わが道を行く以外、道はない。

三度目の訪問の時、私はロンドン博物館という小さな博物館を訪れた。
大英博物館ではない、そちらも観たがあまりに大きすぎて気分が悪くなってすぐに出てしまった。
その小さな博物館が私は気に入った。
4階のコーナーに、石器時代からのココ(ロンドン)の歴史、というコーナーがあった。
その向こうに王室の歴史のコーナーがあって、すなわち王家誕生に至る、石器時代からのロンドンっ子がパネルの絵で紹介されているのだ。
石器時代、さすがのロンドンっ子も毛むくじゃらで、原人である。北京原人と変わらない。
右へと順路をたどると、手には木や石で作られた道具を持っている、やや進んだロンドンっ子。
腰の辺りには獣の皮で作った蓑を巻いている。上半身はまだ裸。かすかに金髪である。
この次あたり、日本であれば縄文か弥生時代の家族が火を使って食事の支度・・・という絵であろう。
確かに完全に直立し、金のたてがみもライオンのごとく立派になられたロンドンっ子の、首から下には、
四角い鉄製の鎧。ヨロイ?!確かに重そうな、これは鉄でできた鎧である。
右手には、これまた鉄製の切っ先の付いた槍(ヤリ)、左手にはこれで安心、鉄製の盾(タテ)。
しかし脚はまだ裸足。寒そうである。鎧が素肌に冷たそうである。どうやらこちらでは、鉄の歴史がむやみに古いらしい。
私がロンドンの、人や町そのものに感じていた重さと冷たさは、この鎧の歴史と無縁とは思えないのだが、考えすぎだろうか。

その後私は、イギリス、ロンドンとは直接関係がない。が、あの国、あの町とのご縁はまだ終わってはいない。
私はまだ本当の心の交流を遂げていないし、偏った歴史の見方しかしていない。
あのビートルズにどっぷり浸った十代の、ご恩返しもしていない。
私とロンドンの、ロンドンと私の、次のページがきっとどこかに用意されているような気がしてならないのだ。

次のパネルに乞うご期待。

トランペット、トロンボーンがそれぞれ3人ずつ、チューバが1人、ホルンが2人、木管楽器が6人で、その内二人はサックスと持ち替え。
ガラス張りのブースの中にはドラムセット、上手の隅にはピアノ、エレキギター、ベース各一名、下手にはティンパニーやらシロホンの、巨大なパーカッション群。スタジオに入りきらない14人の弦楽器とハープ奏者は、のちほど入れ替わりでダビングされる。

いったい何事、何の録音風景、とお思いだろう。
ディズニーランドのショーかはたまた、日劇レヴューショーの音楽録音か。
いいえ、こんな録音は当たり前だった「劇団四季」の高度経済成長期。
日生名作劇場と題した子供ミュージカルの録音に馳せ参じた、一流スタジオ・ミュージシャンたちの楽器編成である。
まる二日、計20時間くらいかけて、これから鈴木邦彦作曲の新作、約24曲を録音しようというのである。

21才になったばかりの私に、なんとその全曲のオーケストレーション(アレンジ)が任された。
前作「エビータ」の成功で信頼を得た私に、劇団四季から直接依頼が来た、いわば初仕事、初ビジネスである。
とんとん拍子とはこのことだ。一人前のアレンジャーとしての人生、早くもそのスタートラインに立ったのであった。
アレンジには三週間ぐらいの時間の猶予しかなく、逐一稽古場からは変更だ、カットだ、曲が増えたのと連絡が入る。
いくらご近所とはいえ、稽古の後の居酒屋までつき合わされたのでは時間が足りない。
しかもスタッフは皆、とにかく寝ない。
ある演出部の人間は、一日を二つに分けて、それぞれ二時間ずつ寝るとか・・・。
この環境で、上記のごときゴージャスな編成のサウンドをしこたま書け、というのだからたまらない。
まだ駆け出しにも満たない、先月までは学生さんだった私は、時にちょっぴり天の声を聴き、多分に寝ぼけて、
今思えばかなり当てずっぽうな譜面を書いた。とにかく間に合わせることが最大の使命だったのだ。

スタジオに入ってからもダビングだ、ミックスだと寝られない日はつづく。
ロビーのソファでいつも誰かが眠り込んでいる、といった具合である。これがプロの現場。
しかし何もかもが目新しく、親や友人に対しては全部が自慢の種となりうる毎日であった。

録音三日目はダビング・デーだった。シンセサイザーの第一人者、深町純さんの楽器が又すごい。
当時シンセサイザーという物は、鍵盤をいくら同時に押してもたった一音しか音が出ず、使い勝手に限界のある楽器であった。
しかし深町さんの最新式のシンセサイザーからは、一度に八つの音が出るのだった。
そのかわりスタジオの調整室にはところ狭しと機械の群れが並べられる。
すべての配線をすませ、チューニングが完了するまでに約一時間はかかったろう。
要は8台のシンセサイザーを、ひとつの鍵盤で操っていたわけだ。
よって、そこから出てくる音の厚みといったらなかった。なんだこれ一台(8台だ)で十分じゃないか、と思わせる凄さであった。


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さてこうして35人編成のオーケストラ、プラス8台分のシンセサイザーによるブロードウエイもハリウッドも納得するような重厚な音楽は出来上がった。いやほとんど完成した四日目の夕方である、演出家=浅利慶太さまからのホットラインがスタジオに。
劇団の音楽庶務担当、兼、稽古ピアニストであった友人メグちゃんの話によると、どうやら浅利先生は私のアレンジした、お芝居に一番重要な部分の音楽が気に入っていらっしゃらない、と。
なんせ楽器がうるさすぎて歌詞が聞こえん、と。役者の心を邪魔する、と。
おお、おっしゃるとおりでございます。
かくしてハリウッド・オーケストラのサウンドは、演出家お気に入りの「メグちゃんのピアノソロ」へと、めでたく変更にあいなった。

今思えばずいぶんといい加減な仕事をしてしまった。自分の書いた音を認めてもらいたいばかりに、私は全部の楽器を使いすぎたのだ。
大いに気張ったつもりの初仕事、残ったものは、真っ黒に書き込まれたスコアーと、ピアノソロに変更された最終テープであった。

録音がすべて終了した日、私はシンセサイザーを片付け終えた深町さんにロビーで声を掛けられた。
「君のアレンジは、優等生的でつまんない。自分の音楽はこれだ、という閃きがない。
もっと自由に、人になんと思われようがいいじゃないか。俺は君に嫌われたって、一向に構わない。」
おお、ここで泣きっ面に蜂かぁ、何とも返す言葉が見つからないまま、私は半ば呆然とスタジオを後にした。
実は私は、『芸大の作曲科に在学中に、皮肉にも芸大に「音楽クラブ」を作り、卒業の三日前には学長に退学届けを突きつけたという逸話の持ち主』=深町純に密かに憧れていた。もちろんその音楽の鋭敏な感覚を羨ましく思っていた。
であるからこの時はうろたえた。まさに泣きっ面に刺したのは、女王蜂であったのだ。
三年後またスタジオでお会いした時に「おお、あの時はああ言ったけど、今日のアレンジはよかったぞ。」と言われるまで、
あの時の言葉は片時も頭から離れなかった。

自分の音楽・・・
人からの注文で書く中に、さらに求められる自分の音。私は作曲家だったのである。
人生スタートラインに立った時には、もう人生はスタートしていたのだ。私はあの時以来、自分探しの旅を始めた。
自分の中の本当を探り当てる旅、修行は今もつづいている。

 

 

劇団四季のれっきとしたファンであった。高校生のころである。
知人に連れられて「コーラスライン」と「ウエストサイド・ストーリー」を観に行った。
コーラスラインは初演で、当時アメリカでも幕を開けたばかりだった。
ウエストサイドの方は再演で、どちらもオーケストラはテープによる上演だった。

今でもはっきり覚えている。日本にこんなチームがあったのか、という驚き、驚愕、ショック。
ウエストサイド・ストーリーなんぞ、日本人には演奏することも、歌うことも、ましてや踊ることなど出来やしない。
と固く信じていたからだ。父の知り合いであった飯野おさみさんにサインをいただいて、日生劇場を後にした。
家に帰ってから、ジョージ・チャキリスのファンであった私の母に、この現実をなんと言って説明しようかと往生したが、
母は私の口から出る和製ミュージカルに対する賛辞を、いぶかしげに聞くだけだった。

それにしても、小田急線の田舎駅にペらんと貼ってあった劇団四季のポスターからは、想像できぬハイ・クオリティーであった。
あの有名な、映画のポスターにもなった、シャーク団の3人がYの字に脚を上げるポーズも映画そのままであった。
いやジョージ・チャキリス以上に脚が上がっていたかもしれない。
一番私を驚かせたのは、そのテープから流れ出す演奏であった。
パンフレットには演奏したミュージシャンの名前が書かれていたが、私の知った名前はほんの数名、
あとは初めて名前を拝見する人たち(もちろん全員が日本人)であったので、驚きは一層深かった。
日本には、いったいどれだけ才能あふれたミュージシャンがいるのだろうか。未知との遭遇をし、自分の無力さを感じ、そのすそ野の広さに少し怖くなった。とにかく、あの難しい譜面をいとも簡単に演奏し、小学生のころから憧れていたレナード・バーンスタインの音楽を、かくも見事に再現しているチームがあったのだ!この日本に!

幸いにして、というか全くの偶然なのだが、当時私の住まいは渋谷区の参宮橋という所にあり、そこは劇団四季のお膝元であった。
駅前の商店街から一歩外れた路地に、当時の稽古場があり、それは同時に私の通学路でもあった。
あの舞台を観てしまってからというもの、私には、日々の通学の景色がバラ色に見えた。
ここにあのベルナルドが、トニーが、マリアがいる。あそこに見えるバルコニーはマンハッタンのバルコニー。
ときどきピアノの音が漏れ聞こえ、あぁ、僕が弾いてあげるよ、そのウエストサイド・ストーリー。
だって僕は知ってるんだ、その曲がどれだけ素晴らしいか。
映画のレコードを毎日聞いたよ、子供のときからね。暗唱できるよ。ねぇ僕も仲間に入れておくれ・・・。
毎日道すがら、私の夢想は、最大限に膨れ上がるのであった。

一度だけだが、映画の中で、ジェット団が合言葉代わりに使っていた口笛のメロディーを、真似て吹いてみたこともある。
誰にも見られていない時を見計らい、稽古場の前で。
小学生が、ホントにウルトラマンになれるのでは、とこっそりポーズを決めているような格好だ。
こどものロマン。 もちろんバルコニーからは誰も出てこなかったが。

それから三年経ち、私が大学生になった年だったか、劇団では大きなお葬式が相次いだ。
うちに帰り、朝刊を引っ張り出し確認した。
金森馨という偉大な舞台美術家が亡くなったのだと知る。もう一人は越路吹雪さんだった。
何ぞお役に立てることはないかと思ったのだが、いずれもその時の私とはあまりもにかけ離れた、遠い存在のお二人である。
しかたなく私は、ご近所代表としてその様子を遠くからうかがった。
今思えば、あの時あのバルコニーの中で、どれだけの人が、どれだけ深い涙を流していたことか、想像に難くない。

しかし、そんな高校時代からの想いが通じたのか、はたまたご近所の好か、提出作品を書き終え大学生活一年目を無事終えようとしていた私の元に、一本の電話が入る。
劇団四季・音楽監督、後の我が師匠、渋谷森久その人であった。
「今、アンドリュー・ロイド・ウエーバーの新作を立ち上げてるんです。羽田健太郎からあなたのこと聞いて、お電話しました。オーケストラの編曲を手伝ってくれませんか?」
羽田さんは私の父の親友で、私が苦労の末芸大の作曲科に受かったことを、心から喜んで下さった御一人であった。
その羽田さんが劇団四季の新作、「エビータ」の編曲を担当されていたのだ。
青天の霹靂という感じでもあり、待ってましたという感じでもあった。
「ハイ。では2分後に伺います。」
私はさっき脱いだ靴をまた履き直して、玄関を出た。そして2分後には、念願の稽古場に足を踏み入れていた。
バルコニーから見渡す参宮橋の景色は格別だった。ご縁とはこういうものか・・・

その数ヶ月あと、私はあれだけ苦労し、やっとの思いで合格したはずの東京藝術大学を、あっさりと退学していた。

映画、アニメーション、近年C.G.との合体化が目立つ。
映画なら限りなく実写に近く、アニメーションにおいてはメカニックやゴージャスさを極めるために。
確かにC.G.だけだと人間味、生命感に乏しく、ある部分だけに用いて合体させるというのは一案だ。
しかし私にはどうしても弊害の方が気になるのだ。

たとえば戦隊物アニメ、C.G.の戦闘シーンから一変して人物の会話へ、セル画を使った描写に戻った瞬間、
何とも言えぬ「手抜き感」があり、さぁっと夢がさめる。
劇場用映画では、C.G.になった瞬間「あっC.G.になった」と入り込んでいたはずの文学的アンテナから、
機械工学的あら捜し用アンテナに切り替わってしまう。
細密でゴージャスになればなるほど、画が遠くなる、キャンバスが四角くなる。
はみ出すようなこちらの想像力はどこかに消滅する。

なぜ人は「描けない物」「描けないこと」を無理に描こうとしてしまうのだろうか。
「描けないこと」には、うってつけのご馳走があるのに。それはもちろん「音楽」と「お客の想像力」である。
なぜ人は、音楽の効用を信じないのか。私には「眼人間」の感性が信用できない。
私は完全な「耳人間」である。
船の難破する様子だろうが、戦隊アニメの戦闘シーンだろうが、想像しただけで音が聴こえてくる。音楽が聴こえてくる。
だがその音楽を、こんどは聴くだけで、誰の脳裏にも荒波にもまれる客船や、嵐の風圧が思い浮かぶではないか。

C.G.映像の背景に流れる音楽は実に心に空しく響く。
そこにオーボエやホルンの奏でる大オーケストラの音があったとしても、お化け屋敷の中で「怖いだろう〜!」
と囃しているようにしか聴こえない。
大げさで、わざとらしくしか聴こえない。もちろんこれは極論だ。全部が全部、全員にそう感じたまえとは言えない。
だが、私は知っている。
もっともっと深い涙のあることを、もっともっと熱い血が騒ぐことを。
そしてそこには、いつも必ず「音楽」があることを。眼に見えないものすべて、画に描けないことすべてに、
いつも音楽の天使は微笑んでいるのだ。

私は確かに「耳人間」である。

ふと何かを思いつく瞬間、自分の耳元で誰かがそっと囁いている、と感じることがある。
私の周りには、たくさんの先人たちがおり、彼らの知恵を借り、自分は思いつくのだと。
ある人に言わせれば、それは天の声、また別の言い方をすれば、内なる声。どちらも同じなのではないだろうか。

「ああ、この音を書いたら、ホルンにはちょっと高すぎるけど、かっこいい音を書けばこっちが得だし、
かっこよく思われれば宮川さんキャーすてき、なんてなっちゃって、でへへ・・・」というのは単なる自分の回路だけの思考。
「なーんかホルンの音、聴こえてきちゃうんだよな自然に、そうくるとクラリネットはこう来るだろう、
なんか響き合っちゃっていい感じね、あなたたち!」という具合に、音符が連鎖反応よろしく、次から次へと出てくる時がある。
こんなときはは正しく天の声、最初にホルンの音を私の耳元で囁くのは、たくさんの先人たち、というわけだ。
どうかオカルトなんぞのレッテルを貼らないでいただきたい。それでも良いのだが、これにはれっきとした道理がある。

よくミュージカルのオーディションで目にするのだが、踊りでも歌でも、伝統芸術を学んだ人のそれは、
学んでいない人と比べたときに、歴然とした品格の差が出てしまう。
踊りで言えば、指先のいっぽん一本まで気が通った者とそうでないもの。
歌で言えば、自分の出した声に自信と責任を持って、最後まで聴き遂げられる者。
こんな踊りや歌には「品」としか言いようのない、一朝一夕には醸し出せない何かがある。
これは洋の東西を問わず、伝統がくださるお恵みである。「品」だけは自分ではどうしようもない。
先人たちの知恵が必要なのである。
歌舞伎の所作、バレエのパ、声楽の発声法、無駄のない演奏技術、対位法や和声法(作曲法だ)も入れておこう、
アカデミックに培われてきたものすべてに共通する「道」。
きっと茶道や書道にも通じる、たった一つの真実を追究しようと何千万人もの先人たちが模索と修練を繰り返した、幾通りもの道。
これらの何百年もの伝統と、握手をするのだ。手を触れているだけでもいい。
このたくさんの命と知恵の集積を「尊ぶ気持ち」は、すなわち「ご先祖さまを尊ぶ気持ち」に他ならないではないか。

ジャズやゴスペルのようにアカデミズムとは無縁の分野ですら、このことは当てはまる。
歴史を知らずに、歌が歌えるか!踊りが踊れるか!ルイ・アームストロングに感謝せずに、ジャズが歌えるか!

レナード・バーンスタインという偉大な先人が亡くなった。1980年代の終わり頃だったか・・・。
もちろん新聞で読んで知ったのだ。私は密かに微笑んだ。
「ああ、雲の上の人が、本当の天上の人になった・・・」と。
「これからはいつでも私のところに来てください、いつでも耳元で囁いてください、その音を私は書き留めます。」

こうして私は待っている。アンテナを伸ばして。偉大なるお恵みを聞き分けようと。
ロマンチストだ、オカルトだ、大いなる勘違いだと言われても。
なんなら辞書で引いてみてほしい、「偉大なるお恵み=AMAGING・GRACE」の「GRACE」。それこそ「品性、品格」と出ているから。

「聖者の行進」・・・誰でも知っているデキシーの代表曲、これが黒人奴隷を葬るための曲であったということも、広く知れ渡っている。あんなに陽気で軽快、かつ騒々しい曲が葬送の曲?・・・と、誰もがそう思うだろう。
だが 「この世にいたときゃ何にも楽しいことなんてなかった、だからあの世じゃ楽しく暮らすんだ・・・」
という歌詞の意味を知れば、当時のアメリカ社会の凄まじき状況や、この曲の裏にある深い悲しみが理解できよう。

歌うしかない状況、歌うことでしか表現できない苦しみ、悲鳴にも似た心の音。
あの軽快なリズムが、陽気なメロディーが、聴く者の心に鋭く突き刺さる。強烈に濃い、血と涙の音楽である。
「聖者の行進」
私はこの曲が唯一似合った日本人、を知っている。

 


彼の葬式には千人近い人々が訪れた。
渋谷の南平台にある大教会の礼拝堂にも納まりきれず、隣接する大使館脇の細い路地まで弔問客があふれていた。
彼を送ろうと集ったその人々は、今まさに彼の演出した、最後のショーを見守る観客となった。
彼は生前、アメリカの音楽に深く精通し、沢山の音楽家を育て上げた。
また大きな祭事の演出が得意中の得意であったこともあり、弔問客のほとんどは音楽家かショービジネスの関係者だった。
ショーのクライマックスは、著名人たちの悼辞でも、縁ある音楽家たちの演奏でもなかった。
それはなんといっても出棺の時の「聖者の行進」であった・・・。
私にとって、それは師の最後の教えとなった。私は彼の不肖の弟子である。

「聖者の行進」という曲にはあまり知られていないが、ヴァースが付いている。
ヴァースというのは、主となるメロディーを導き出すために書かれた、歌の導入部分である。
あんなにも明るい曲のヴァースは想像を絶するほど暗く、もの悲しいメロディーであった。
デキシーランドジャズの第一人者、トランペッターの中川さんが譜面を用意して下さった。
私もそれを見て初めて知った。まさにトランペットの泣かせのツボにはまる、短調のゆっくりとしたメロディーであった。

中川さんご自身による、トランペットのソロで音楽は始まった。
8小節の、もの悲しいヴァースのあと、一斉に始まるデキシーランドのリズム。
友人たちが、マーチ用に肩からぶらさげたスネアドラムのイントロが、礼拝堂の天井を揺るがせる。
「ジャンジャン・・・ジャンジャン・・・ジャラーーーーーージャンジャン」
「パッパラパパッパーーーーー」
そしてトランペットが、テューバが、トロンボーンやバンジョーが、それを合図に歌いだした。
瞬間空気が一変し、私たちは泣いた。その日、朝から降っていた雨よりはるかに多く、はるかに騒々しく、泣いた。

どうだアキラぁ、これが音楽だろ

先生、最高です

葬式ってのは、こうやんだよ

通りを取り囲む人垣、何事かと高層アパートから身を乗り出す見物人。

先生、満員だ

雷を落とさんばかりの雨がその時ふと小降りになり、「聖者」は大好きだった黒塗りのアメ車に乗って、人垣を分け消えていった。

 

 

エジプトで見える月と、日本で見える月がどれだけ違うか確かめるために、思い立って旅をした。
30代の初めだった。
残念ながらというべきか、思ったとおりというべきか、
ギザのホテルから見えるお月様は、とても日本的で、ススキの穂やウサギの似合う、いつもどおりのお月様であった。
しかしこの一人旅は、他にいくつもの発見と教訓を私にもたらした。

旅の三日目だっただろうか、私はガイドを付けずに、昨日一通り見たギザのピラミッドをもういちど見に行った。
こんどは頭に入れる情報としてではなく、自分の感覚だけを生かしてこの巨蹟と向かい合いたかったのだ。
クフ王の大回廊もすごかったが、私のお気に入りは第三のピラミッドだった。
だれのピラミッドだったか名前はもう覚えていないが、それはあとの二つと違って少々小ぶりであった。
中の玄室で瞑想をしたがとても居心地がよく、空気もさほど淀んでいなかった、という印象だ。

 


しかし一歩外に出れば、そこは1990年代のエジプシャンの社会。いきなり背後からラクダ引き接近。
キャメルは30分で10ダラーだと。あっちからは子供がパピルス(古代の紙)どれでも1ダラーだとしつこい。
なんなら10枚で1ダラーでもいいと。・・・なにそれ?
もう、一昨日カイロの空港に降り立った瞬間からこれの連続で、香水だ、金だ、シルクだ、パピルスだ、と町ぐるみ、
いや国家ぐるみの熱波が押し寄せる。合言葉は「イッツ、グッドプライス!」。
もっとも観光地となれば何処も同じだが、一人旅となると押し寄せてくる全員に対処せねばならず、
ほとほと疲れた(十日目には慣れたが・・・)。
いっそ物売りみんなを一同に集めて
「エジプシャンの諸君、君たちは本当に歴史あるエジプトの国民かい?本当にこの偉大なる建造物を築き上げた、賢者の末えいなのかい?」こう聞きたくもなってくる。
しかしよく考えてみると、答えは「NO」ではないか。
ピラミッドは正確にはいつ造られたものか解らない。歴史が一度途絶えているからだ。
となれば、ここにいるエジプシャンたちが、ピラミッドを造った人々の子孫という保障はどこにもない。
たぶん違うだろう。そりゃそうだ・・・なんとも無知な東洋の旅人=自分。

日暮れ時、毎日きまった時刻になると、耳をつんざくような大音量で、そこここのラッパ型スピーカーよりコーランの経文が流される。
ああ今日も始まった。おそらくギザの何処にいてもこの必要以上の大音響からは逃れられまい。
以前はこれがエジプトだ、と思っていた。これがエジプトの「音」だと。
しかしこれに関しても、我々無知な旅人は大胆な勘違いをしていないか?コーランは、説かれてたかだか千と数百年のものだ。
コーラン自体はいい。その音からは尊厳を感じる。イスラムの人々にとっては何事にも代えがたい、立派な世界観がそこにあるのだろう。しかし、このピラミッドを背景にしたコーランの響きには、現地で体感して初めて知ることのできる、「違和感」があった。
ピラミッドとイスラムは関係ないのだ。
たとえば鎌倉の大仏の前で、ストリートミュージシャンが歌っていたとして、それを鎌倉時代の歌とは誰も思わないだろうが、
このピラミッド前でのコーランは勘違いのもとだ。よく似合うようで、似合わない。

5000年、あるいはもっと昔、ここギザのピラミッドの許ではいったいどんな「音」が「音楽」が響いていたのだろう。何億年も前からその表情を変えぬ「砂漠の月」同様、巨大な石は私に微笑みかけていた。

芸大(東京藝術大学)作曲科の入学試験はピアノ無しで行われる。
いちど、音楽家とは縁遠い方々に、その風景をご覧いただきたい。
その景色を観ても、とても今そこにいる100人近い若者が、大学特有の斜めの机に向かって、「作曲をしている」とは夢にも思うまい。
窓の外には上野の森のカラスが、隣の校舎の屋根をツンツンと飛び跳ねて鳴いている。

朝9時。試験開始。
室内は鉛筆が紙をすべる音、定規で二重線を引く音、コツコツコツとシャープやフラットを書き入れたり、
八分音符の玉をグリグリと塗りつぶす音しかしない。
あとは時々聞こえるクシャミと鼻をかむ音ぐらい。楽音は一切なし。だれもそこでは楽器を弾かない。
弾いて音を確かめたりしてはいけないのだ。
一人ひとつずつ、防音の個室とピアノが与えられる・・・というわけにもいかないからか。
目の前にあるスタインウエイのピアノには、黒いカバーが掛けられたまま。
皆黙々と机に向かう。鼻歌すらわない。鼻歌に歌えるような音楽ではないからだ。
今、彼らの100の脳の中では、厳格なソナータがほとばしり、鳴り響いている。
ひとつとして同じ曲はなく、使う楽器もまちまちだ。
ただひとつ、モチーフというわずか2小節ほどのメロディーが書かれた紙が渡される。
これを用いて器楽曲を書け、というのが出題された問題である。
制限時間=9時間。90分ではない、9時間。壮大なる「頭の体操」。

 

私はこの試験を三度経験した。三度目にようやく受かり芸大に入学した。
当時、この年に一度の風景が、なんとも滑稽でナンセンスで、自分で受けながらもそのことがおかしくてたまらなかった。
「音のない風景・芸大受験」なんてこっそり写真に撮り、当時流行っていた写真週刊誌に売りつけてみたかった。

12時のお弁当の時間も、私語は厳禁。もしかして鼻歌も厳密には禁止だったのかもしれない。
トイレに行くときはツレしょん禁止、中で情報交換しないように教官の監視付き 。
コツコツコツ・・・鉛筆の音が延々夕刻まで続く。
昼間、こっちを向いて「アーッ、アーッ」(アホーッ、アホーッ)と鳴いていたカラスも群れを成し、
夕暮れの寒空に消えていってしまった。
夜7時、「それまで。」の掛け声とともにほぼ全員のため息とも鳴き声ともつかぬ「アーッ」。
トントンと厚紙の五線紙をそろえ、消しゴムのかすをはたいてジ・エンド。
ダッフルコートのボタンを留めて、100人の日本中から集まった天才少年、天才少女たちは、上野の森に吸い込まれていくのだった。

東京藝術大学音楽部作曲科、現在でもその入試のスタイルは続いているらしい。

 

サン=サーンス作曲の「動物の謝肉祭」という組曲の中に、「ピアニスト」という表題の曲がある。
14の小品で構成されたこの組曲の中のひとつである。

そもそも「動物の・・」と謳ってはいるが、威風堂々たるライオンや森のカッコウなどの他に、
カンガルー、めん鳥をモノにするおん鳥、金魚鉢の中の金魚、なんてのも出てくる。
その中でも一際眼を引く動物が「ピアニスト」である。
とにかく、組曲「動物の謝肉祭」という機知に富んだ名曲の中で、この曲だけは他を圧してつまらない。
ハノンやチェルニーの教則本のような、単なる指の運動のような曲なのだ。
通常この曲は、へたくそなピアニストがひたすら精進している、という演出で奏される。
つまり超絶技巧を備えたピアニストが、わざとらしくへたくそに弾くのである。
そうしているうちにだんだんテンポが速くなり、いつの間にか次の小品「化石」へと突入する・・・という段取りである。
私はこの部分、レコードを何度聴いても違和感が感じられてならない。
みんな判で押したようにするこの演出は、多分間違いだ。

そもそもサン=サーンスといえば晩年の傑作「交響曲第三番」を見れば分かる通り、大変な皮肉屋である。
こっちの方はというと、三管編成約90名のオーケストラに、パイプオルガン、連弾のピアノまで入っている。
巨大オーケストラの隅っこにピアニストが二人、ちょこんと椅子を並べて座っている姿だけでもう笑える。
しかもこの連弾ピアノが活躍するのは、たったの9小節。
そのためにオルガニストの他に、ピアニストを二人も雇わなければならないのだ!
私には、欲しいものなら何でも手に入る、近代の西洋文明そのものを皮肉っているようにしか見えない。
まさにこの壮大な交響曲のテーマはそこにある。
そのぐらいはっきりとしたスピリットが感じられるからこそ、この曲は近代交響曲の傑作なのである。
そんな、自虐的で皮肉屋で、音楽することにメッセージを込める作曲家、サン=サーンスが「ピアニスト」を、
謝肉祭の一登場人物として取り扱うはずがない!

この立派な小品における私の仮説はこうだ。
まず「ピアニスト」は「人間=人類」である。その象徴である。
ピアニスト=我々は、テクニックやメカニックを信じて、黙々と上昇しつづける。
機械文明はだんだんサイクルが加速し、テンポが速くなっていく。
その渦巻きの時間が最高潮に達した瞬間、我々の行く末を見通した作曲家はほくそえむ。
「化石」・・・
化石をアンモナイトだと決め付けるのは、イメージ貧困な音楽学者や評論家のしわざではないか!
この化石はこの曲を演奏し、聴いている我々のそれかもしれないのだ!

きっと名匠サン=サーンスの描いたこの謝肉祭は、時空間を超越した、壮大極まりない謝肉祭であるに違いない。
彼、サン=サーンスは、万国博覧会のカンガルーや、金魚鉢の金魚を眺めるうちに、世界の、宇宙の、我々の、行く末を観たのだろう。
「化石」の次、この組曲のハイライトは、涙を秘めた聖なる美の象徴「白鳥」、を経て終曲=フィナーレへと突入する。

 

芸大に入ると決心した頃から、私はクラシックのレコードを聴きあさった。
私の母はなんといってもエルビスのファンで、頭声で歌うオペラだとか、深刻なベートーベンの音楽に付き合うという心意気は
さらさらなく、父母のどちらからも、その影響を受けるということはなかった。
それがよかったかどうかは別にして、10代の後半で初めて触れるベートーベンやブラームスのコダワリの深い音楽は、私をとりこにした。彼らの音楽は「ソナタ」抜きには語れない。
完璧な「ソナタ」を実現することが、音楽を哲学へと導くのだ、と当時の私はブラームスになり代わってそう思っていた。

ソナタとはAをやってBをやる、というような歌謡曲的な音楽ではない。
音楽でしぜ〜んに流れていく、自然の摂理、法則、自然のシナリオを書くことが「ソナタ」を書くということの意味である。
私は魅力的な音を追及するとともに、何か毎日、自然科学でも勉強するような眼つきで浪人時代を過ごした。
さぞや理屈っぽい青年だったことだろう。
しかしそうなると「ソナタ」の本当の意味、語源が知りたくなってくる。
あの頃の今が、今の今を形成しているのだから、私が舞台芸術としての音楽を志すのもその頃のコダワリが源なのだから、
なんとしても「ソナタ」は「シナリオ」という意味であって欲しい。
または「無双の愛」でもいい。なんなら「夫婦、その愛の変遷」というのでもいいから、
とにかく文学、哲学と音楽を結ぶような語源でなくてはならない。

妻の嫁入り道具の一つである音楽辞典のほこりをはたき、恐る恐る開けてみた。
なんとそこには次の文字が・・・「ソナタ=奏鳴曲」
つまるところ「器楽曲」の意味だ。歌のことを「歌曲」というではないか、
それに対して楽器で演奏する曲のことを「奏鳴曲」と呼ぶのだそうだ。
なあんだ・・・確かに歌曲でソナタ形式というのは無いなあ・・・
この辞書・・・ドイツ人の書いた辞書じゃあなぁ・・・
ほんとだよなぁ・・・「ソナタ=ラテン語:自然科学的、愛」というのを期待してたんだが・・・

17世紀ぐらいらしいが、それまでの音楽というのは圧倒的に「歌」のことで、
初めから楽器のために書かれた曲というものがなく、「歌」を楽器用に置き換えるようになったのが、
ソナタの始まりで、語源だそうである。
ということは、ソナタは「歌詞の無い歌曲」のようなものだ。
私がいつもやっている「大フィルポップス」のようなものだ。
オーケストラのコンサートで、シャンソンやミュージカルの曲をやるときに、
歌詞がないから、あの手この手で聴かせるという、あれとおんなじだぁ。
こう辞書にも書いてある、「歌詞のない音楽で、その内容を表現するために、形式が重んじられ、発達した」と。
それが現在の「ソナタ形式」であると・・・。私は見事にブラームスの後を継いでいたのだ。

大フィルポップス・コンサートは平成の「ソナタ」であったという、続、大いなる勘違い。

 

18世紀に進化を遂げた「ソナタ形式」。その進化の最終形は「ある愛の変遷」である。

第一テーマ=主人、主人公、男、自分・・・
第二テーマ=妻、相手役、女、伴侶・・・
展開部=さや当て、食い違い、葛藤、事件・・・
再現部=時間の経過、微妙な変化、変わらない大切なこと、昇華、融合

と、考えると解りやすい。それはまるで、夫婦の一生、愛の変遷を表している。
ベートーベン然り、モーツァルト然り、ブラームスに至ってはこの感覚が一番解りやすい。
よく、ラブレターを書くとき、また最近の流行歌の中にも、「君との出会いは必然だった」とか
「出会うべくして出会えた二人」とかいう背中が痒くなるような趣旨の表現をするではないか。
まさに音楽でそのことを表現しようという試みが、ソナタ形式の主眼である。

まず、第一テーマと第二テーマであるが、必ず関係調から選ばれる。
あんまり遠い調性どうしだと、はなからご縁に無理があるし、おんなじ調性どうしだと血が濃すぎる、というわけだ。
出会うべくして出会った二人が、とりあえず結ばれて盛り上がり、新婚生活がスタートする。
若いカップルの披露宴の後、ゴールに見えて実は始まりなんだよ〜ん・・・というあの時の
大いなる勘違い感が提示部(最初のくだり)の最後の部分にはある。
その予感どおり、展開部に突入した二人は大いにもめる。
以前の自分を表現しようとしても、何かすんなり行かない。ある時は衝突し、ある時は生産的発見もする。
とにかくそこでは、一人のときには起こらなかった展開を見せる。これが展開部で、作曲家は腕の見せ所だ。

そうして時間が過ぎ、ふとあの頃に似た、本来の自分を思い出す日がやって来る、それが再現部。
本来の自分(第一テーマ)は基本である自分の調性に戻って高らかに、または明らかにグレードアップして再現される。
もちろん研ぎ澄まされ、そぎ落とされて再現されたり、まったく冒頭と同じ音符で再現されることもある。
が、そこには必ず本来の自分を取り戻したという、ある種の快感や、確信が込められている。
そしてそれに続く妻のテーマには明らかな変化の証が・・・。
なんと第二テーマが再現部では、主人の調性と同じ調で奏でられるのである。
妻の完全なる服従か、はたまた同じお墓に入るという意味か・・・。

ちょっと、いや多分に戦前までの古い日本の夫婦像のようではあるが、これはなにも夫婦像に限らず、
自分の中の陰陽の葛藤でもかまわないのだ。
とにかく「君(自分の中の)と出会えてよかった感」いっぱいで終わるのが大方のソナタ形式の慣わしである。
音楽による「自分探し」あるいは「他人探し」が18世紀のソナタ形式の奥義であり、世界観、なのである。
なんとなく仏教的でもあるこの世界観・・・芸術は世界をまたぐ。

音楽、芸術に付き物の「想像力」・・・「想像は、させて何ボ」「聞き手あっての想像力」
時として妄想力と区別がつかなくなる想像力、この正しい使われ方に注目したい。

いくら書き手、聴き手が想像を張りめぐらせ、音楽にシナリオ性を持たせたとしても、それが独りよがりであったり、
狭く浅い世界観であったりしては何にもならない。
かえって聴き手に自分の想像力を押し付けることになる。
実はこの「想像力」=人が自然に想像してしまうこと・・・これこそ涙の源なのである。
想像してしまう、という行為、現象によってしか感動はおこらない。そのぐらい芸術の中心に位置するものなのだ。
要はその使い勝手である。「させて何ボの想像力」・・・私はこれが言いたい。

私のうちに出入りしている若者が一人いる。自称「付き人」というおごそかな、要はマネージャーである。
当年とって28才、生まれは1975年ということになる。
物心ついた時には、すでに音楽産業はC.D.に凌駕されており、うちに来て初めて昔ながらのアナログレコードの音を聴いた。
電気蓄音機に耳を傾けながらの一問一答
「いいだろう・・・」
「いいですねぇ・・・」
「違うだろう・・・」
「違いますねぇ・・・」
「胸に直接来るだろう?」
「来ますねぇ・・・」
「熱くなるだろう?」
「なりますねぇ・・・」
半ば誘導尋問か催眠術の様ではあるが、聴き終えた彼の頬がうっすら紅潮していたのでまんざらでもなかったらしい。

ご承知かも知れないが、アナログレコードの音というのは多かれ少ながれ、歪んだ音である。
どんな透明な音楽であっても、レコード針を通すとわずかながら歪んで聴こえている。
その歪みに妙な存在感と現実味があるのがレコードの音である。
C.D.には全くこの歪み感がなく、音そのものは、どこまでも実際の楽器や声に近いのだが、そこが返ってうそ臭く届く。
この両者の違いを握っているのが「想像力」である。
C.D.の音は情報としてはまことに整然としているが、耳に届く感じも同様に、正確な「情報」としてである。
それ以上のことは何も起こらない。
ところがレコードの音は、こっち(聴き手)の想像力を必要としている。
レコード盤に針を落とすや否や「シャー、パチパチ」と別世界に誘われ、
その瞬間こっちの想像力のスイッチも「カチッ」とONになる・・・。
音情報よりも音楽そのものにのめり込む。
右脳や五感が活性化された状態で、微妙に歪んだ音を次々聴き込んで想像し倒していくわけだから、
お腹いっぱい、胸いっぱい、涙腺などちょろいもんである。

想像は「させるもの」なのだ。
音楽に勝手な解釈を付け、シナリオを与えるのも結構なことだ。
が、聴き手の想像力を見落としてはいないだろうか・・・。
我々音楽家は何かにつけて、こうして自らを省みなくてはならない。

 

結婚してまもなく、妻のある一言に百年の恋も覚めやらんショックを受けた。
「明日からオケ合わせなの・・・あたしメンコン弾くの・・・」
オケはオーケストラ、そしてメンコンとは・・・メンデルスゾーンのコンチェルトのことである。

妻は私とひとつ違いで、一流音楽大学の大学院を主席で卒業したヴァイオリニストである。
しかも私より後に生まれておきながら一年早く入学した。
クラシック界では超エリートである。
そんな彼女からも平然と発せられる非音楽的スラング・・・
「じゃあ、ドボルザークのコンチェルトはドボコンなわけ?」と、私。
「そうよ、チャイコフスキーはチャイコン、ブラームスはブラコンよ。」と、妻。
私は軽いノウシントウのようなカルチャーショックを受けていたのだが、妻にはそれがなんで・・と思えたようであった。
「だってジャズの人だって言うじゃない、シーメーにクーイーとか、C千だG百だとかもっとひどいじゃない・・・」
「それはジャズの逆さ言葉だろ、そんなのジャズの人だから言うんだ、君に言ってほしくないな・・・」
「そりゃ確かに品はないけど、クラシックだって遊びはあるわ。」

私は少し冷静に考えてみた、ジャズの逆さ言葉は下品だしナンセンスだが、そこにユーモアを感じる。
明らかに受け狙いで始まった言葉遊びだ。
ところがクラシックのそれは単純に言葉を縮めただけで、むしろ滑稽な感じだし軽薄だし・・
いや、軽薄なのはどっちもいっしょか ・・・
とにかくそれがそっちの社会の (日本のクラシック界の)常識だというのなら何とも拭い去りようのない無力感を感じるのだ。
私は、ならばと決定的とも思える質問を浴びせた。
「んなら、ベートーベンのコンチェルトは・・・?・・・ベトコン・・・?」
答えはもちろんYesである。
他に交響曲の場合、ブラームスの交響曲第一番なら「ブライチ」、チャイコフスキーの五番なら「チャイゴ」、
作曲家のプロコフィエフは「プロコ」でショスタコービッチは「ショスタコ」だそうである。
今となっては私も時々無意識に使っている言葉かもしれないが、うぶだった当時の感覚は今も健在だ。

この現象はもしやロック界における「フェンダー」や「クラプトン」などの「語尾上がり現象」に近いのではなかろうか。
あまりにも好きで、あまりに日常で、シンパな感覚であるとき、人は語尾を上げて発音し、愛着の念を込める。
エアロビクスの先生が「タオル」の語尾を上げ、たおる君のように呼んでいたこともあったっけ・・・。
あまりにベートーベンばっかり勉強しすぎると、ベトナムに戦争があったことなども忘れてしまうのだろうか・・・。
しかしさすがにモーツァルトのコンチェルトを「モーコン」とか、同じく第二番を「モツニ」・・・とは言わないらしい。
まあ単に紛らわしいからだろうけれど。

日本のクラシック界にモノ申す。君たち、まじめに音楽をやりたいからクラッシクをやってんだろうが。
クラッシクにも、ノリやユーモアはあるんだろう。だったらセンスの悪い言葉遊びはやめたまえ。
クラシックに飽きたのならジャズをやりたまえ。
そうでないと夢が壊れるんだ。
ひそかに憧れている私はどうなるんだ。

 

音楽における「キイ」という言葉をご存知だろうか。
「キイが高いので、半音下げて下さい・・」とかいう時に使われる。
すなわちキイとは、その楽曲の調性・・・である。
そう長年思い続けてきた。
たまに素人さんが「キイ」を自分の声域のことと勘違いし、
「ぼくはキイが高いほうです」
とか
「自分のキイに合わない」
などとノタモウているのをほほえましくも無知と思っていた。
キイとはその曲にシャープやフラットがいくつ付くか、すなわち「楽曲」の高さを示すことばで、
奏者の都合を示すものではない・・・

ところが無知はどうやら自分の方だった。
先日、ソルフェージュ教室に通う私の長女に聞かれた、
「パパ、ト音記号とか、ヘ音記号とかのことを「クレ」っていうでしょ、じゃあ「クレ」はフランス語で何の意味か・・・」
クイズである。
見当もつかなかったので降参すると、
「クレはね・・・フランス語でキイのことなんだよ・・・パパ知ってた?」
知らなかった。「クレ」は大学の時にその言葉を始めて聞いた。

五線というものは、ある音域を越えると加線だらけになって読みにくい。
ピアノのように音域の広い楽器は2段譜の大譜表であらわすが、
たいていは1段譜、高い楽器ならト音記号、低い楽器ならヘ音記号をあてがって表記していく。
他にも中低音の楽器に好都合なテナー記号や、ビオラに使うアルト記号は別名ビオラ記号ともいう。
と、教わった。
各記号の読み書きを、音大では一年セイの最初の授業で教えるのだ。
これをセンセイは「クレ読み」といっていた。
これら調子記号のことを「クレ」という。
何調かを表す「キイ」とは別物とこの時ぼくは思い込んだ。
両者が同意語だったとは・・・。
もともと「クレ」は歌手の為にあみ出されている。
テナー記号やアルト記号、他にバリトン記号、メゾソプラノ記号なんていうのもあったそうだ。
それぞれ歌手の都合に合わせて誕生したのが「クレ」であり、「キイ」なのなら、
「ぼくのキイは高い」や「私は生まれつきキイが低い」なんていうのも一本筋が通っている。
彼らの概念の方がより正しかった・・・。
ぼくら玄人が普通に使っている「キイ」という言葉の使い方ももちろん正しかろう。
「キイ」という言葉のフトコロが深かったのである。

そもそも日本語の「調子記号」という言葉も三味線の「本調子」「二上がり」「三下がり」などを連想させておもしろい。
お座敷で三味のお師匠さんが
「はい、おたくのキイは?」
「あたしのキイは本調子」
なんて会話もあながち間違いではなさそうである。

 

1998年FIFAワールドカップフランス大会、表彰式のハイライトで使われた曲を
覚えている方はいらっしゃるだろうか・・・。
優勝国であり開催国であったフランスの曲ではなかったので、意外に思われた方も多かったかもしれない。

ぼくもその一人で、その曲が花火とともにスタジアムに鳴り響いた時
「なんでフランスでスター・ウォーズなんだ?」
とその陳腐さに式典スタッフのセンスを疑った。

そう、その楽曲とはユダヤ系アメリカ人作曲家、ジョン・ウイリアムスの「スター・ウォーズ」であったのだ。
いわばハリウッドの戦争映画のテーマ曲である。しかも作られてからその時点で20年は経っている・・・
どうしてこの曲がこの国を挙げての大イベントの頂点で使われたのか・・・。

そこにスタッフの平和への希望とその主張が込められていることに気づいた時、ぼくは鳥肌が立った。
そうだ「スポーツこそ21世紀の代理戦争」と選曲者は言いたかったに違いない。
世界がサッカーのピッチの上で戦うのだ、しかもその戦士たちは各国のキラ星たるスター達だ。
ラテンだユダヤだと言っている場合じゃないんだ。
これがこの催しの一番のテーマであり意義である・・・と高らかに、
というか得意げに込められたメッセージがそこにある。
ハリウッドの戦争映画のテーマ曲を躊躇なくサッカーにぶつけてきた大胆なセンスに、
フランス人と日本人のセンスの違いを感じて感銘を受けた。

音楽に込めるメッセージとは決して抽象的なものとは限らず、こんなにもわかり易く、単純で大胆なこともありえるのだ。
フランス人の音楽に対する姿勢、その目には見えない力を当たり前のように信頼している姿が、うらやましくもあった。
ちょっとひねくれてはいたが、とてもフランスらしい演出であった。

そういえばサッカーの起源も、王の首を蹴ったという戦だったっけ。

 

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