雑誌などの記事より

 朱色の分厚い蓋を取る。
濃い目のお醤油のニオイに頭がクラクラする。
これぞ昭和のニオイ。
そこに元気なく浮ぶふやけた天ぷら。
お約束のほうれん草。
その奥にねずみ色のソバが沈殿しているのだ。
これが我家のそば。
そば=出前。
おそばの美味しい想い出などひとつもない。
これが私の少年時代でありました。

 それが…ご馳走といえばそば、外食するならそば、とりあえずお昼もそば、そばそばそば。
見つけるのはそば屋、通うのもそば屋、目指せ日本のそばの道!!おそば万歳!!
と、今ではこんな変り様。笑うなら笑いなはれ、ハッハッハ(自分でも笑っちゃう)。

 そばに目醒めたのは大人になってからです。

 ある日テレビを見ていると、食い道楽のレポーターさんがそばを旨そうにすすっておられる。
新そばの香りが…とか言いながら。
何?香り?ソバの香り?少年時代イヤだったあのニオイではなく香り?そうか、そばは香るのか!!
私はこの時食い改めた。食ってないのに食い改めた。イメージが沸いたのだ。
そう、そばはイメージを刺激する。そこはかとないそばの香り…風の様に香っては去る奥ゆかしさ。
あれは多分にイメージの産物ではないだろうか…。
私はこの時しっかりと、そばの香りをキャッチしたのだ、テレビから。
これぞ天啓、そう思うと居ても立ってもいられず、
うちから西新宿までの通り道にある「渡辺」というおそば屋に直行。
とろろそばを注文。待つこと五分。いよいよおそば再認識の瞬間が。

 そばは「ねずみ色」ではなく、ほんのり緑がかった「そばの実色」でありました。
ニオイはイメージした通り、香りでありました。
出されたそばを私は反射的に、鼻へ押しつけてみました。
なるほどそばは鼻でも味わうものだったのであります。
おまけに私の注文したとろろそばは、そばつゆととろろが絶妙にとけ合って、
最後の一すくいのそばにきっちりと最後の一とろがからんで「ちゅる!」という計算のされ様。
う〜んと唸る私。これは実に奥深い!!芸の道にも似た「そばの道」に精通した瞬間でありました。

 ところで皆さん、作曲家というのはまず凝り性です。そういう人が選ぶ職業と言っていい。

 ある時期私は栃木の山奥で、そばを食いちらかしておりました。
塩原町の別荘を根城に、今日は隣町の○○というそば屋、明日は温泉街の○○、
そこに行く途中のあの店も気になる…てな具合。
地元の友人達に
「この辺じゃ○○が一番だ」
とか
「いや、最近できた○○じゃないの」
とか取材をして、しらみつぶしにそばを食いちらかしていたのであります。

 そうこうするうちに私はある粉屋に行き当たりまして、
その粉屋にお約束ののし棒とのし板がおいてあった、という訳です。
そこで私がどういう行動に打って出たかは、これをお読みの御仁にはもうお分りでしょう。
そう、私はそれらを買入し、自らそばを打ち始めたのであります。
しかし威勢がいいのはここまでです。
自分でも腹立たしいほどの出来栄え。
そばを延ばす、ヒビが入る、修正する、何だかパッチワークの様相に。
う〜んこれはこのまま釜で焼いて平皿にしようか…。
あげ句の果てに洋包丁で切ったソバは一本残らずサインはV!!
ゆで上ったVの字の極太麺には家族も失笑。
そば好きの娘をしても「パパ…アゴがちゅかれる…」。

 今では「これは作曲の片手間にやっちゃいかん。そばの道に反する!」
と硬派な言い訳を隠れ蓑にそば打ちは諦め、そば食いに専念しております。

 そういえば私の父(故・宮川泰さん)もかなりそば好きだったようです。
旅行中に波止場にあった屋台の立ち喰いそばを見つけるなり大喜びして車(キャデラック)を止め、
嬉しそうにソバをすすっていた父を覚えています。 
父は父で、私とは別のイメージを、おそばに持っていたことでしょう。
今ではその本人が、イメージの世界へ引っ越してしまいましたが。(出展:2009年11月 季刊「新そば」)

演奏中、音楽家たちは見えない糸で結ばれている。それぞれの想いを音に託し、
最終的には「自分たちが今、生きている」ということを確認し合ってまた去っていく。

僕とROLLYさんの場合もそうだ。
この2年間、それぞれ色んな時間をすごし、色んな空気と出会い、色んな色を見て、
そしてステージの上と下(オケ・ピット)で再会する。
とりたてて歌の練習をしたわけではない。
作曲を一緒に考えたわけでもない。
けれど、僕たちは音楽を奏でるあの瞬間、完全に「見えない」という糸で結ばれてしまう。

それは初演の稽古の最中であった。
僕はROLLYさんから御自身と、亡くなった兄、そして御両親との悲しくはかないストーリーを打ち明けられた。
ROLLYさんには幼くして亡くなった兄がいらしたということだ。詳しい事情は分からないが確か
事故だったはずだ。とにかくその後に生を受けたご本人は、大そう過保護に、たとえばたたみの上で
自転車に乗るようにして育てられた・・・ということだった。

僕にはよく分かる。ROLLYさんの御両親が、どんなにハラハラしながら彼を育てられたことか。
それに応えて、たたみの上のサーカス団のように親に勇気をあたえて来た少年ROLLYのことも
想像に難くない。ミュージカルの中で玉乗りをしながら、唄い、そでに居るスタッフをも笑わせようと努力する
彼の現在の姿とも全くだぶって見える。
二幕では、キツネの頭を付けたROLLYさん「あそこにたしか生きた少年・・・」のことを唄う。
時にポツポツと時にボソボソと・・・。
僕はその瞬間光を観る。金色の少年の、見えない命を観る。

ROLLYさんからその話を打ち明けられた時、とても変な感じがした。
こんな偶然ってあるんだろうか、僕は自分の17年前に亡くした息子のことを打ち明けた。
「僕はあなたの父親と同じです」 と言った。

かくしてキツネの唄は完成した。僕とROLLYさんの中でのミュージカル『星の王子さま』は完結した。
初日の幕が上がり、ステージの上と下でたがいにそれぞれの光を観ることになった。
その瞬間、僕とROLLYさんとは「見えない」という糸で結ばれている。

「目に見えない、がそこに居た」
僕等にとっての『星の王子さま』とは正にそういう話だ。
「王子さま」とは、「かつてここに居た」はずの兄弟や肉親に他ならない。
そしてそれは大勢の、とにかく沢山の先にいってしまった子供たちの代表で、
そんな王子さまが沢山の観客の前でキツネや指揮者に会いに来る話だと、僕は勝手にそう思いこんでいる。(出展:2005年8月「星の王子さま」プログラム)

これは聞いた話だが、生前、朝比奈隆のリハーサルでは2ndヴァイオリンやヴィオラ、
つまりメロディー以外のパートをゆっくり噛みしめる様に分奏させることが多かったそうだ。
ベートーヴェンやブラームスの様な巨人達の濃密な音楽は、内部の梁や釘の一本に至るまで、
如何に心の通った音楽であるかを確認するためである。
オーケストラのメンバーはそうすることによって、他のパートを聞く耳を持つとともに、巨人から生まれた
「音楽」という建築物の無駄のなさを知り、安心してメロディーを歌い上げられる様になっていくのだそうだ。

こんな音楽の咀嚼のしかたはどちらかというと作曲家の音楽観である。
単なる交通整理係としての指揮者の見識ではない。
なるほど朝比奈隆の師は、メッテル先生というロシア人作曲家であった。

大阪時代、服部良一はこのメッテルという名伯楽の下で研鑽を積んだ。
服部良一の音楽からは、常に西洋音楽の伝統を重んじるという「品性」がにじみ出る。
「東京の屋根の下」を思い出していただきたい。これは単なる美しいメロディーではない。
この曲をそらんじる時、同じ和声学や対位法を学んだ私には、
すぐに美しいハーモニーや対旋律が浮かんでくる。
つまりこのメロディーは、歌う者のみならず、伴奏するベース奏者やヴィオラ、2ndヴァイオリンの
内声奏者までも幸せにするという、宝のようなメロディーなのである。
とかくメロディーメーカーと思われがちな服部良一は、実は卓越した編曲家でもあり、
そういう意味で自立した真の大作曲家である。

余談ではあるが同じことを中山晋平の作品にも感じたことがある。
「波浮の港」というどっから聞いても日本調のメロディーには、実はシューベルトの歌曲の様な
ピアノパートが付いている。正確には時代がずれるのだろうが、このころの日本の作曲家は、
とにかく心から音楽を愛し、深い感受性をもって西洋と東洋の心を結びつけていったのだ。

現在出版されている服部音楽のほとんどが、メロディーだけを載せた歌本(うたぼん)であるが、
ひょっとすると「東京の屋根の下」にも作曲された時にピアノ伴奏のパートが付いていたかもしれない。
独創的でしゃれた伴奏を、自らのピアノで奏でておられたに違いない。
いつか孫の隆之君のお宅にでもお邪魔して、もう少し研究させていただこうと密かに思っている。

編曲の仕事を通じて服部作品と対峙する時、私はいつもそこに生きたエネルギーを感じる。
私の中で服部作品が時を隔て、もう一度生まれ直す瞬間を感じる。
それは単に懐かしい時代が蘇るということではない。
流行歌であれブギーであれ、皆「作品」であるからこそ持ち得るエネルギーを感じるのだ。
中でも長年「童謡」との認識しかなかった「山寺の和尚さん」が服部良一の初期の代表作であることに
気付いた時の、そしてオリジナルを聴き直した時の驚きといったらなかった。
オリジナルスコアーはフォー・フレッシュメンばりのジャズ・コーラスである。
例の「ダガジグダガジグ・・・」はお経なのだろうか。確かにお経に聞こえる瞬間もある。
が、これはお経というより、当時アメリカで隆盛を極めたデューク・エリントンではないだろうか・・・。
年譜にジャズ・コーラスと明記されているこの作品は、おそらくデューク・エリントンの「It don’t mean athing」に
代表される、スキャットを意識したものに違いない。

デューク・エリントン・・・ここにもう一人、巨人が立ち塞がる。
ジャズ界のカリスマが何ゆえ「Sir」の称号で親しまれたかといえば、この巨人もバンドの一人一人、
或いは楽器の個性を巧みに操り、有機的に音楽を編み上げるという、ベートーヴェンやブラームスと
同じ信念を持った芸術家であったからに他ならない。「山寺の和尚さん」は単にジャズ風なのではい。
そうした巨人たちの考えを踏襲し、完全に自分のものにした上での「ジャズ」である。
♪ヤマデラノ・・・とメロディーが\/こういう動きをする。伴奏の低音は/\という動きである。
これが音楽を有機的な「作品」へと導く第一歩、アカデミズムである。
おそらく「山寺・・・」はコーラスの内声を歌う者でさえ気持ちよく、ベース奏者にとってはたまらない
ジャズの進行形で、しかも聴く人の側には「お経」であり「童謡」の様に親しみの深いものであるという、
これぞ傑作中の傑作ではないだろうか。
服部良一は「天の声を翻訳したに過ぎない」と自らを過小評価しているが、これこそ先人達の偉業=伝統を
尊ぶ気持ちの表れではなかろうか。

筆者は二十数年前、芝の郵便貯金ホールの楽屋で一度だけすれ違い、ご挨拶させていただいたことがある。その時私の受けた印象は、親しみにあふれ・・・でも、上品な初老の・・・でもない。
小柄で独特な物腰の、なんとなくマイペースな・・・今思えばそこに、昭和の「巨人」の姿があった。(出展:ビクターエンターテインメント㈱「服部良一・東京の屋根の下」僕の音楽人生)

「宮川さんの曲は綺麗過ぎる。もしこの音楽で幕を開けるなら、僕は劇場中の天井から腐った茄子でも
降らせなきゃならない。」とは演出の蜷川氏のコメント。
プロデューサー、ホリプロの堀会長のお言葉はもっと強烈だ。
「宮川さん、あんなお経みたいな曲ばっかりじゃなくて、キャッツのメモリーみたいな曲を入れてよ。」

もう失うものは何もなかった。それまでの舞台音楽家としての経験、知恵、ノウハウをもってしても、
私にはこの寺山修司の難解な戯曲の作曲はムリだったのだ。
一ヶ月先の初日に、私達スタッフは一体どんな舞台を観ることになるのだろうか。
面白いのか、そうでないのか、感動はあるのか、犯罪的実験行為に終わるのか・・・。
とにかく残された時間は一ヶ月。埼玉芸術劇場の稽古場で、役者、演出家、全てのスタッフと共に、
お芝居の稽古をしながら、ジャムセッションの様に作曲していくしか道はなかった。

もともと「身毒丸」は寺山さん率いる「天井桟敷」のレパートリーとして初演された音楽劇だ。
音楽劇なのに音楽を新しく作り直すのだから責任が重い。
慎重になる私を蜷川さんを始めとするスタッフ達の潔さが刺激した。
それは稽古初日の蜷川さんのスピーチに集約されている。
「僕の演出プランは……白紙です!!ごめんなみんな、昨日まであれこれ考えていたんだけど、
そんなありきたりなプランじゃこのヤマは越せそうにないので白紙にしました。」
彼はこうも言う。
「皆で大いなる失敗作を作ろうじゃないか」
今思い出してもありがたい。私は初めて稽古場に「父」を見た。
この言葉をきっかけに、私の作曲活動は、めでたく「開き直りモード」へとスイッチした。

それからの一ヶ月、元来ナルシスト志向である私は完全に、
母恋に町を彷徨する身毒丸”その人”になった。
毎朝三つの電車を乗り継ぎ稽古場へ向かう。
新宿の雑踏……人の流れとは逆方向へと向かう自分。
俯瞰で観る自分の姿は、この劇の冒頭のシーンさながらだ。
「プロローグ身毒丸のテーマ曲」である。

この埼玉への遠さがよかったのだ。世田谷の自宅へは玉電で辿り着く。
昭和四十年製造のグリーンの車両。
ほこり色にくすんだ緑が、物心つき始めた頃のノスタルジックな感覚を呼び覚ます。
母恋の歌が聴こえて来る。劇中、仮面売りから「穴」を買い、身毒が地底に落ちるシーンの音楽だ。

「家族の形成」という曲の誕生もドラマチックだった。
身毒丸と父が新しい母を買い、家に連れて帰る道行きシーン。
演出家の「ハイッ歩き始め、スタート!」という号令と共に、十数名のスタッフがワゴンをガーッと移動。
役者がゆっくり歩く周りで、徐々に家のセットが組み上がっていく。
そのあまりにスリリングな光景に、自然と手はピアノへ。即興的作曲でまた一曲上がり。

クライマックスは藁人形のシーン。継母の呪いに両目つぶれる身毒。しかし次の景では元通り。
そこで有名になったあのセリフ

「母さん!僕をもう一度妊娠してください!」

…寺山は楽しんでいる、身毒もどこかで観客に見られている自分を明らかに楽しんでいる…。
よってこのシーンは浪花節調のミュージカルに。
もうやりたい放題。一景出来上がるごとに稽古場は充実し、一曲書き上げるごとに私は強くなった。
緊張感は遂に途切れることなく、夢の様な一ヶ月間はあっという間に過ぎてしまった。

初日、そこで私達が観た物は、これまで観たことのない「お経」で「茄子」で「メモリー」な見せ物であった。
知性は感覚の後から走って付いて来る。
いつの間にか涙で頬が熱くなる、奇妙でいてストレートな作品であった。
パーティの席で、照明の吉井澄雄さんからいただいたお褒めの言葉が面白かった。
「彬良ちゃん、次は君の交響曲第一番を期待してますよ。」
お洒落な褒め方もあるもんだ。                                        (出展:集英社「すばる」2002年3月号)

ほんのささいなキッカケでバレエを習うようになった。昭和46年、少年がまだ10歳のころである。
小学四年の彼は毎週水曜日、ランドセルの底に黒いバレエシューズが入っていることを、友達には
打ち明けられずにいた。が、バレエそのものに対しては、何か運命的なものを感じていた。

洗足にあるお稽古場に通う少年にはいくつかのお目当てがあった。
レッスンの後で飲むファンタ・グレープ、素敵な岡本加津子先生の立ち振る舞い、そして朴先生の弾く
稽古ピアノ(小牧画伯の描きかけの油絵を観るのも好きだった)。
当時、朴先生はどんな曲を弾いていたのだろう。確かマズルカやポルカなどの小品だった。
決して曲が印象的だったわけではない。音が鳴り、踊り手(生徒たち)が動き始め、ステップしジャンプする、
その空気の流れ、空気の仕組みが少年には何とも愉快で美しかった。
いつかああいうピアノが弾きたい・・・少年はそんな思いを心に刻んだ。

以来、音楽家を志した少年に、あるチャンスが訪れた。
高校生になったある日、代々木八幡にある有名バレエ団に通う同級生のバレリーナから、こう誘われたのだ。
「明日、朝のお稽古にアディソンさんというイギリス人のピアニストが来るの。すごくいいピアニストだから、
レッスンを見学できるように阿佐美先生に聞いてあげるよ」
次の朝、少年はそこで凄いのもを観た。
「レッスン」というのは言い様で、実は東京中のソリスト達が、英王立バレエ団から先生を招いて
レッスンを受けるという。言わば「先生達のレッスン」の現場だったのだ。
音の雫をすくい取るようなグランプリエ、空気の隙間に音をはめ込むジュテ、タンジュ。
そして音楽と踊りのどちらが欠けてもあり得ない、アダージオの深い叙情。
白髪のピアニスト、アディソンの指先からこぼれ落ちるのは、紛れもない「バレエの素」「華の種」・・・

何週間か後、私はバレエのレッスンピアニストとしての人生を歩み始めた。
わずか3年足らずではあったが、多くのバレエ教師、ダンサー、ミュージカル俳優らと知り合い
蜜月の時を過ごした。

あれから20余年、自分にはバレエの音楽を作曲する使命があると思っている
自分の中には今も、彼=少年と等身大の自分が居る、と感じている。

                                  (出展:「ジャン・コクトー堕天使の恋」プログラム)

1997年10月24日大阪地方晴れ
来るべき時がやってきた。
二年前から始まったプロジェクトは、この日の午後五時半からきっちり45分間で終結する。
第52回国民体育大会秋季大会開会式後催事、というのがこの夜のショーの正式名称である。
もっとも開会式のメインはというと、天皇陛下がご覧になる入場行進だそうで、
陛下はそこまでご覧になった後、一分刻みのスケジュールで車にお乗りになり、
秒単位の細かさでホテルに御投宿なさるそうだ。後催事の「後」とは式典の後、と言う意味だが、
我々にはどうしても「陛下のお帰り遊ばした後」と言う意味に思えてならなかった。
願わくば天皇陛下にもショーを観て頂きたかった。気に入って頂きたかったからではない。
この日一番のスターである天皇陛下がお帰りになった後の客席が、妙にザワザワと、
気の抜けた状態になっていたからだ。

その散漫な客席を一気に集中させるアイデアが、オープニングの演出プランに盛り込まれていた。
それは天候に左右されるプランである。
そもそもこの日、ショーが雨天中止にならなかっただけでも幸いである。
が、事態は風速何メートルという細かい世界に突入していた。
オープニングの演出プランはこうだ。開演を前に、フロントの大型スクリーンでカウントダウンが始まる。
カウント・ゼロで上空800メートルのヘリコプターから、なみはや国体のマスコット-モッピーちゃんの
着ぐるみを着たダイバーが、競技場目がけてダイブ。
ここで衣裳をまとったキーボード奏者が、落下に合わせて瞑想的な即興演奏を開始。
パラシュートは3分~5分かけてゆっくり旋回しながらダイビング。
客席からは、風向き次第でパラシュートが見えたり、張り出した屋根で隠れたりで、だんだん大きくなり、
「見ろ、あれは何だ!」
「モッピーだ!」
それに合わせて音楽を盛り上げ、着地と同時に「ジャン!」と終止。
同時にフィールドの花火が上がり、これを開演ベルにショーが始まる、という趣向だ。
3分~5分というのは、風の具合による。風が強いほど、目標に対し直線的にダイビングするそうである。
そうなれば滞空時間もまちまちになり、したがってこのオープニングパートに限っては生演奏。

そしてこのキーボード奏者こそ、このショーの音楽監督、自分なのである。
この日は思いのほか上空の風が強く、開演の10分前までダイビングをやるかやらぬか
微妙な情勢だった。今更やらぬといったら気が抜けるし、かといって「ケツ合わせあり」の5分の
即興演奏となると、これはこれで緊張した。
開演まであと10分になって舞台監督チームの一人に800メートルの上空から連絡がはいる。
「宮川さん、飛ぶそうです。」
「・・・」(やっぱやるのか)
「滞空時間3分のパターンだと思われます。」
「・・・」(じゃあ、あのコードから、あっちのモチーフへ入って、と)
「それではそろそろ舞台のほうへ。」
「・・・」(オレってかなりカッコイイかも)
長居競技場は五万人収容である。そのセンターステージには、一台のキーボードが。
純白で統一されたステージに合わせ、私は東京から持参した白の衣裳に身を包んだ。
ここから一人センターステージへ向かえば、五万人の視線を一身に浴びるだろう。

カウントダウン・ゼロで演奏開始。
前日大阪のスタジオで仕込んだ、スペシャル音源を使ってのシンセサイザー演奏だ。
着地時に奏でる「ジャン!」という音は鍵盤の一番下のAの音を弾けば出るようになっている。
昨日付き合ってくれた大阪のシンセサイザー・プログラマー、音楽制作のスタッフ、プロデューサーに
マネージャーの荒木氏、そして舞台監督のチームに見送られ、いざ出陣。

キーボードの前に着席。予定通りカウントダウン開始。
客席は予想以上に盛り上っている(私が着席しただけで?)私は雑念を排し集中力を高めるために、
呼吸を整える。すべて順調。

と、その時。思いがけない何か「風景」が私の眼に飛び込んだ。
それは、競技場中央に描かれた大きなコーダマーク目がけて、今にも地に足が着かんとする、
大きなパラシュートを背負ったモッピーちゃんその人であった。
この瞬間のスローモーション的、自問自答。
『うわァパラシュートって近くで見るとおおきいんだなァ』
『でもまだ3分たってないよなァオレ何にも弾いてないもんなァ』
『このモッピーはそのモッピーだよなァ』
『もう一人先に来るって話しなかったもんなァ』
スローモーションが解けた瞬間、私はキーボードの一番下の鍵盤を思いっきり押していた。
「ジャン!」

仕込んだ通りの大音響とともにダイバーは着地。
私には次にどうすべきか、笑ったらいいのか、泣いたらいいのか。
が、そこは音楽監督、悠然と立ち上がりさっき来た道を元に戻った。
このままお家に帰りたいような気持ちでいっぱいだった。
横目に見るフィールドでは、確かに花火が上がり、ショーが始まっている。
この音楽は確かに私の作曲した「M-1モッピーダンス」だ。私は自分のショーから締め出された。

舞台裏、直立不動の顔ぶれは先ほどと同じ。そりゃ1分じゃ逃げられない。
兄貴、お勤めご苦労さんです、という雰囲気の中で一同の口から出たのは「ドウモスイマセン!」
(どっきりカメラだまるで)せめてもの救いは、この模様がテレビで全国に放送されなかった、ということだ。
東京の実家の母と妻子はNHK教育テレビの「なみはや国体開会式中継」という文字を新聞で見つけ、
一家でテレビの前に鎮座し、若旦那の作ったショーを今か今かと待ち受けていたのだそうだ。
しかし無情にも番組は、二時間の入場行進の後、天皇陛下が退席なさったところで
「それでは長居競技場からサヨウナラ」といったかどうかは知らないが、
そこで終わってしまったのだそうだ。母は怒ってNHKに抗議の電話をしようと思ったそうだが、
この晩は皆ですし屋に行くことになり、事なきを得た。

ところでショーの本編は全くの成功の内に終わり、音楽の評判も上々であった。
アクシデントらしいアクシデントと言えばオープニングのパラシュートぐらいで、私は楽屋に戻り、
原因の説明を受けた。それによると、ダイバーは風のタイミングを見計らって、予定より数分早めに
ダイブしていたのだ。それに折からの強風でダイバーは殆ど垂直に降りるしかなかったそうだ。

終演後、私はこの日飛んだダイバーを紹介された。ダイバー氏は、かれこれ飛んでから
一時間は経つというのに、まだ昂揚しているらしかった。あの風速の中で競技場の一点目がけて、
しかも着ぐるみでダイブするというのは、前代未聞の決死のダイビングだったのだそうだ。
「死を覚悟しました。」とは本人の弁。堅い握手を交わしたその手から、生死の境を渡り歩いた人の
興奮が伝わって来た。私は自分のことは何も言えずに、その場を立ち去った。

二年前「オペラを作曲して頂きたい」で始まったこの巨大プロジェクトの一番の見せ場は
「決死のスカイダイビング」というところに決着した。そういえばショーの中で驚いたことがもうひとつある。
前出の振り付けのおばさまのパート、「未来人の登場」の場面である。
彼女らは何をあそこまでこだわっていたのか、どういう振り付けになっているのか、とくと拝見したのだ。
音楽が鳴り、センターのゲイトから重々しく登場した「未来人」が一人。
往年の美空ひばりのような衣裳を着け、背後からは目も眩むようなライトに照らされて登場した
その人は、あ、あの人は・・・正しく振り付けのおばさまご本人だったのである。
ああここにも一人、主役が居た。
彼女は自分の登場の音楽であればこそ、あそこまでのこだわりを見せて居たのだ。
そうだ主役は自分ではない。
入場行進して来た選手団こそが主役。大阪府の国体局のスタッフもまた主役。
何千人もの素人ダンサーたちも主役。そしてこの日集まった五万人の入場者こそがまた主役。

要は天皇陛下主催の、秋の大運動会のようなものなのだ国体とは。
大阪の皆様、東京の一作曲家の奮闘は、はたしてお役に立ったでしょうか。
少々ほろ苦い気分に浸りながら、私は関空を後にした。
(以後私は「オペラとパラシュート」には慎重である。)完

(出展:日本作編曲家協会「JCAA JOURNAL」1997年12月発行)4

今や「グランドレビューなみはやの夢」と題名を変えたこの企画はどう考えても、
録音された音楽によるテープ上演がふさわしく、音楽プロデューサー氏との協力によって立てられた
録音の計画を推し進める事になった。
音楽の内容は大変バラエティーに富み、打ち込みからラグタイム、現代音楽から和太鼓までが、
五万人収容のスタジアムをキャンバスにスピーディーに展開する、という趣向である。
上演時間はきっちり45分。つまり45分間鳴りっぱなしの音源を作らなくてはならない。
オーケストレーションには約二週間を費やした。
これは自分の仕事のペースとしては超音速のハイペースである。
デモテープ制作の段階で(我家にある頼りないシンセを駆使し)かなり正確なオーケストレーションの構築が
見えていたのが助けになった。出演者達に対するサービスの気持ちから、なるべくオーケストラの音に近い
テープを作っておいたのである。しかしこの、「限りなく本番に近いデモテープ」というのが思わぬ落とし穴、
後に大きな災いとなって跳ね返ってきた。

前記したとおり、ピアノスコアーとデモテープは上演の約一年半前に完成していた。
そのテープを待ち受けていたのは何千人という出演者であった。
彼等彼女等は何十もの団体の集合体である。
ある団体は高校生達であり、ある団体はダンス教室を母体としたものであったりして、普段の生活や、
音楽や踊りに対する受け取りかたも様々である。
そのいくつかの団体が出番ごとに集結して、千人のタップダンスを披露したり、
「連獅子隈取り隊」と称してパフォーマンスしたり、と言わば大家族構成だ。
家族の長は勿論演出家で、これは東京の人だ。
その演出家が大まかな振り付けを考え、ここはこう、ここはこういう感じで、とそれぞれ分家の頭に伝えられる。
この分家の頭が大阪のダンス教室の長であったり、学校の体育関係の責任者だったりする。
そして実際この分家の頭たちが、それぞれの出番の振り付けを担当する。
なるべく地元の人間たちが知恵を出し合い、作品に地域性を持たせるという狙いだ。
完成した振り付けを、こんどは分家のまた分家に分かれて覚え込む。
それぞれの教室では出演者一人一人が、笑い、泣き、一喜一憂しながら、一年間みっちりと練習に打ち込み
鍛錬を積むのである。ある団体ではきちんと楽譜を読み、何小節、何拍目とカウントしながら練習する。
ある団体では「はーい、ジャンと鳴ったらピョンですよー!」と口バリするかもしれない。
また、ある団体では、何分何秒後に右足第二関節……と、妙に解釈が細かい。
各チーム音の数え方はまちまちだが、テープに合わせて「用意ドン!」と始めれば、ピタッと動きが揃う
(はず)という訳だ。

ところで私の作った「頼りないシンセによるデモテープ」というのは、つまりは私が自宅で思うに任せて、
クラビノーバという電子ピアノを弾いて作ったテープである。
音楽の「感じ」は出ているが、正確にはテンポが揺らいでいる。
勿論音楽の内容は、全編クリックを使えるほど単純な代物ではない。
つまり我々音楽スタッフは、本番用テープの制作に当たり、デモテープの音楽のテンポと強弱を、
寸分違わず再現しなくてはならなくなったのだ。
一体どうすればきっちり45分間の音楽にしあげられるのだろうか。
しかもオーケストラは最大44人編成で、スタジオ録音として大掛かりだ。
私の最初の案はこうだった。
まずデモテープ通りのクリックチャンネルをシンセオペレーターに苦心して作ってもらう。
つまり「表情豊かに揺らいだメトロノーム」を録音しておくのだ。
そのクリック音に合わせてオーケストラは演奏する。
そして実際この通りやってみたのだが、この案は失敗だった。
いくら表情たっぷりに打ち込まれたクリックでも、それに“合わせる”という作業では
音楽にならない箇所がいくつもある。

表現とは演奏者の中から生まれてくるべきものだったのだ。
結局は録音スタジオで何度も何度も練習し、ミュージシャン全員がテンポや表情を完全に把握したところで
テープを回す、という原始的かつ当たり前の方法がとられた。が、そうして出来上がった本番用テープは、
時間はかかったが、自分でもなかなかの出来栄えと思えるものだった。
結局45分の素材を録音するのに、延べ20時間の録音時間を要した。
そして録音したのと同じぐらいの時間をかけてリミックスされ、オペレーターが徹夜で編集し、めでたく納品と
あいなった。本番のジャスト3ヶ月前であった。
そして薄々予感はあったのだが、事件は納品の約2週間後に表面化した。

一本の電話のベルが騒動の始まりであった。
二年越しの大仕事を終えほっと一息、そろそろ次のプロジェクトにかかろうかという平和な空気の中、
国体局から電話が入る。
「あのう、センセイ……、ある振り付けの方(分家の頭)がですねぇ、いただいた本番テープがデモテープと
違う個所があって踊れない、いいはるんですわぁ。もうセンセイにあんなに苦心して作っていただいておいて
何ですけど、来週その振り付けのセンセイと東京の方へ伺いますので、一度話を聞いてくだはりませんかぁ。」
と国体局の女性。
「いいえそんな、わざわざ来てくださらなくても、
なんなら私が直接お電話で、何処と何処が悪いのかお聞きしましょう。」と私。
「いやぁ、センセイそれがぁ……、何処と何処どころではなくて、何十個所かあるそうで、
電話では何ともそのぅ……」
「……」

次の週、私たちの事務所にやってきたのは先日の国体局の女性、そしてその問題を山の様に抱えた
振り付けのセンセイお二人。お二人は大阪では名の通ったダンス教室の主宰者ということで、
さすがにそれ風のキラビヤカなおばさまだった。
「いやあお二人とも素人さんに振り付けするというのは、さぞや大変なことでしょう。」などと、
まずは当たり障りのない話しから。どの辺を突っつかれるのかと、こちらも探りを入れる。
5分程雑談をしてから「それじゃあ具体的にどの辺に問題があるのか、テープを最初っからかけますから、
そこが来たら教えて下さい。」と私は自分のスコアーに目を落とす。
録音エンジニアでこのプロジェクトの、言わば戦友である伊藤氏がDATのスタートボタンを押す。
しばらく無音の後、音楽が聞こえたか聞こえなかったかというその瞬間、お二人から同時にお声が掛かる。
「ハイ、止めてくださぁい」
「ここのトーントンが、トーントンではなくて、トーントンなんですワァ」とその内のお一人。一同が目が点。

「ですから、トーントンの所がデモテープではもうちょっとこう、何というのかしら、トーントンなんですワァ。」
なおも一同目が点。まるで心理学カウンセラーよろしく慎重に言葉を選び、私はこう切り出す。

「つまり、トーントンでは踊りにくく、よってそこはもっとトーントンであるべきだ、と」
「ハイ、こちらのデモテープでは、ほらほら聞いてっ、もっとトーントンになってるでしょ、このトーントンが……。」
「……」

二時間の打ち合わせの中で、こちらが要領を得たのは数箇所のみ、あとはトーントンがトーントンだったり、
タララッターがタララッターだったり、と手の付けようがない。
その数十個所の難問を丁寧に一つずつ拝聴しようと決めていたのだが、しまいにこちらもじれったくなり、
「そういう微妙な音の違いに胸ときめかせるのが、あなたたちセンセイの役目でしょう!!」などと怒りだしてしまう。
しかし怒られても逆に、先方も要領を得ないらしく『点になった目』を返されただけだった。

私の分析はこうだ。彼女らはデモテープを聞きすぎたのだ。
この一年間、あけても暮れてもカセットデッキにかじりつき、髪の毛一本の違いも聞き分ける、
ミクロの耳になってしまったのだ。トーントンがトーントンなのだもの。
もはやこの音楽に関しては、作曲者のこっちの方が素人なのだ。ありがたいことではある。
自宅の電子ピアノでつらつらと奏でたそのメロディが、下では子供がはしゃぎ横では妻が洗濯物を干している
その中で、思うに任せて録音したそのテープが、何千もの耳にタコが出来るほど、
延べ何十万回も聞き返されていたのである。あなどるなかれ素人耳!
私たちはその晩、おばさま二人を少々説教し、多分になだめ、大方おわびしてお帰り願った。

それから我々は、要領を得た数箇所を、念のためこれ以上ないくらいハッキリと分かるように修正し、
丁寧にトラックダウンし直した。
数日後、大阪の何千人ものおばさまが、テープを聞き大満足しているという知らせを受けた。(出展:日本作編曲家協会「JCAA JOURNAL」1997年12月発行)3

国体に限らず大きなイベントの制作には必ず付き物の、作曲上の条件がひとつある。
それは音楽を本番の行われる一年前とか一年半前に仕上げなければならない、ということだ。

このなみはや国体の作曲依頼の約一年ほど前にこんなことがあった。
例の中止になった都市博の一件である。
自分は富士銀行の親会社である芙蓉グループの、C.G.とホロスコープを用いた「時の旅人」という
劇場作品の音楽を担当していた。C.G.制作にかかる時間を逆算すると、やはりオープンの一年前には
作曲を仕上げてほしいということだった。作曲と台本の作成は、ほぼ同時進行でおこなわれた。
台本をいただき、ちょっとずつ作曲し、それに沿って台本をちょっとずつ直す、という作業が
約一ヶ月の間行われた。約束どおり一年前にはデモテープも完成し、
とりあえずほっとしたその翌週ぐらいに都知事選の幕が切って落とされた。

自分は打算や政治的な利害を一切考えずに青島氏に一票投じた。
まさか政治が自分の仕事にこうも直接影響するとは夢にも思わなかった。
自分の世間知らずを責めることも出来るが、正直他の人が都知事になるより、よほど夢がある様に
思えたのだ。そしてご存じの通り都市博は中止、自分は約束の半分のお金をもらって、
潔く乗りかけた船を(正確には航海の途中で)降りなければならなかった。
悲惨だったのはC.G.の総監督とその下のC.G.作家たちである。
それぞれが担当する場面のイメージを膨らませるだけ膨らませ、
今まさに作業の海へ飛び込もうという瞬間に、風船をパチンと割られたのである。
精神的痛手は計り知れない。社会復帰もままならぬ状況だった。
クライアントのOKをもらうまでの戦いは何だったのか。
富士銀行の会議室で熱弁をふるった監督以下、脚本家、私、制作代理店の人々、
新たな夢はチームワークもろとも水の泡となって消えた。

今回は、毎年各県持ち回りの国民体育大会ということもあり、中止になる心配は、天候のことを除けば
まず無いのがよかったが、音楽を先行させるという段取りには変わりなかった。
そしてピアノスコアーとデモテープが完成した頃に、例によって(薄々感づいてはいたのだが)大騒動が
始まった。実はこの「グランドオペラなみはやの夢」は、オペラではなかったのである。(?!)
作曲は東京の演出家、大阪の構成作家、それに前出の音楽プロデューサーと私、という顔ぶれで
何度も練り直し、私は全員が納得するまで書き直した。
しかし作業は楽しく、思ったよりずっとスムーズに進んでいた。
というのは、いただいた第一稿がもはやオペラと呼ぶにはあまりにかけ離れた舞踊台本、
はっきりいえばレビューショーの箱書きの様なものだったからだ。
オペラ行きと思って乗った船は、実はレビュー方面行きだったのだ。
しかしそこはエンターテイメント作曲家、水を得た魚である。
しかしオペラ作家デビューという、鼻から湯気の出そうなテンションで望んだ初打ち合わせでは
思わずマネージャーに耳打ち「オペラじゃないじゃん……」
もしこの時点でこの認識を国体局にも持ってもらえていたら違っていたろうが、
とにかく事件は半年後、演技実証会という席で勃発した。

この日は途中まで出来上がったグランドオペラという名のレビューショーを、
出来たばかりの競技場でデモテープを使って演じ、皆で見てみようという会であった。
規模はやや小さめ、衣装も何点かしか出来ていないが、それでも千何百人の出演者による
デモンストレーションが繰り広げられた。
作品はほぼ自分を含めた演出チームのイメージどおりであと約一年でなんとか上演のレベルに
こぎつけるであろう、という目処が立ったかに思われた。
ところがその日の午後の評議会で複数のご意見番の先生方から意見が出された。
「これではオペラではない。オペラにはアリアが付き物だ。だから素晴らしいアリアを入れるべきだ」
という。自分はこれにカチンときた。
「これは完全なレビューショーだ、アリアなんぞ一曲いれたところでオペラにはならない。
ここまでショーを完成させておいて今更、何がご意見番だ!」
と、鼻から出血しそうな勢いで爆発してしまったのだ。

国体局演技式典課といってもショーのことについては素人である。
そのためにご意見番として、舞踏家や評論家、大学の教授などを招いているのだが、
どうやら野外オペラの発想は、もともとその辺から出されたものだったらしい。
しかしこのプロジェクトは何せスケールが大きすぎた。
あれもやりたい、これもやりたいという大勢の意見の本質的違いを見抜く以前に、
おおざっぱに見切り発車してしまったのだ。
グランドオペラという言葉の響きは、いつのまにか「大掛かりで感動的な」という意味にすり変わった。
しかも対岸では、何千人という演技団体がショーのあらましを手ぐすねひいて待ち構えている。
結果、題名はオペラ、中身はマスゲームという奇妙な事態を引き起こしてしまったのである。
結局、この事態は我々の出した、題名を「グランドレビューなみはやの夢」に変更するという、
なんともたよりない意見が通ってしまい一応収拾がついたのであるが、
今思えば府知事を含めた国体局のスタッフ全員に恥をかかせる結果になってしまった。

まあ老いも若きも日々勉強、大イベントに付き物の大ドンデン返し、などといったらヒンシュクだろうか。
我々の住む社会には、とても一人では背負いきれない大きな責任というものが確かにある。
しかしそんな責任ごとも、みんなで恥をかけばなんでもないことが多い。
たとえば「戦争」や「核」や「政治」という巨大な問題の陰にも、解きほぐせば個人の羞恥心であったり
することが、実は殆どなのではないだろうか……。
誰にも責任を投げかけられぬ程大きな問題は、早めにみんなで恥をかくのが良い。
自らをキーパーソンとした貴重な社会勉強であった。
自分のオペラ初挑戦の道はまたいつか巡って来るだろう。(出展:日本作編曲家協会「JCAA JOURNAL」1997年12月発行)2

1995年夏、エンターテイメント音楽家にとって頂点ともいうべき仕事が舞い込んだ。
「グランドオペラなみはやの夢」の作曲依頼である。
我らがマネージャー氏からの伝言によると、オーケストラにブラスバンドが総勢五百人、合唱が千人、
フロアーを彩る演技者は中高生二千人、アマチュアダンサーが千人、着ぐるみのマスコットが五十体、
と、ともかく話がでかい。この数千人もの出演者を使って(しかも五万人収容のスタジアムで)、
いったいどんなオペラを作ろうというのだろう。
本番は1997年、大阪なみはや国体秋期大会の開会式においてのただ一回だという。
この話、いったいどこまで本当なのだろうか。
とにかく直接話を聞こうと、プロデューサー氏と会うことになった。

オペラの内容はともかく(これが後の大事件となるのだが)その規模は本当だった。
この国体のために現在(95年当時)大阪の長居に競技場を建設中だという。
このたった一日のイベントのために(国体そのものもわずか一週間で終わってしまうのだ)、大阪府は府庁の
中に特別な部所や課を設け、1993年頃からイベントの内容についても検討をはじめているのだという。
お会いしたプロデューサー氏の名刺の肩書きはこんなものだった
「大阪府国体局競技式典課演技係音楽プロデューサー」
仰々しいを通りこしてまるで大名行列。
TシャツにGパンでママチャリに乗って約束のホテルに登場した小生、靴下ぐらいはいてくるべきで
あったろうか。ちょっと格好はわるかったが、ともかくグランドオペラの作曲依頼だ。
オペラの園に生き、オペラを日常とし、研究にクシンサンタンするオペラ作家たちをさしおいて、
この自分が作曲するのだ。

ちなみに小生のオペラに対する見識はゼロ。どちらかというとあの頭声のオペラ声を聴くと、
背中のあたりがムズ痒く、思わず笑っちゃうという不謹慎な少年期を送った小生にとっては未知の世界。
他に書きたい人、ふさわしい人は大勢居るだろうにと思うと気が引ける面もあるが、舞台音楽、
特にミュージカルを仕事にしてきた自分にとっては、またとないチャレンジの場を与えられたわけである。
ついにオペラか……と思うと光栄でありまた、これまでの自分の音楽人生を振り返るととりわけ
感慨深いものがある。

思えば自分は物心ついたころからの総合芸術少年であった。中学生の時にバンドを組んだ。
自分がそのバンドのために最初に書いたのは詞や曲ではなく、ラジオ台本だった。
バンドのレパートリーが「コンドルは飛んで行く」一曲しかなかった事もあって、セリフの力を借りたのだ。
その曲を中心とし、バンド結成の成り行きや、メンバー間のエピソードをおりまぜて、架空のドラマを作り、
台本を書き、効果音も色々と工夫して録音し、一本のカセットテープを作り上げ、デビューアルバムよろし
く悦に入ろうという指向だ。

中学二年になるとオリジナル曲を沢山作った。歌はあるのだが、すぐ間奏になる。
演奏は実はバンプ(同じフレーズの繰り返し)で、そこにすかさずセリフ、というか芝居が入る。
たとえばこうだ、
「宇宙船に乗って行こう~」
これが歌、でバンプになり
「敵機来襲、方位左舷五度、波動砲用意……発射!」
はセリフ。ここでギターアンプをひっくりかえす。
「ドッカーン!」
でまた歌、二番へ……てな具合。
音楽そのものよりも、その作用や作るプロセスに興味があったのだ。
こんな自分が大人になり、当然のようにショーやミュージカルの仕事をするようになった。
疑問の余地は全くない。ひょっとするとこれこそがオペラ作家への道だったのだろうか。
確かに自分は向いているかもしれない。

さて、こんな自分にとっての頂点ともいえる仕事、“オペラ”。実はこのあとすぐに最初の困難、
大どんでん返しがくるのだが……。
とにもかくにもこの「なみはやプロジェクト」めでたく初日を迎えるのだろうか。(出展:日本作編曲家協会「JCAA JOURNAL」1997年12月発行)1

一体何がそこまでさせるのか。
「いったい何が面白いんだい?」と自分に問いかけてみる。
その答えのひとつが「踊り」である。

音楽のないところに踊りは存在しない。
音楽が空気になり、その空気を踊りが表現するのだ。
己の書いた(弾いた)音楽を、ある時は何十人もの群舞がその空気を満たし、揺るがす。
単なる音から始まったその音楽が、三次元の世界でかくも見事に立体となり
舞台サイズの表現になるのだから感動的だ。
こんなに楽しく正しい音楽の使い道は他にあるまい…、とさえ思えてくる。
レコードもいいだろう、コマーシャルもいいだろう、でも一度舞台に溺れてしまった私には、
究極の感動は「音楽」と「踊り」が一体となった「エンターテイメント」の中にあるとしか思えない。

日の丸アレンジャーの国内留学記、
しめの今回は、日本の中のオランダ、長崎ハウステンボスの巻である。
「テーマパーク」と呼んでいいものかどうか、とにかく長崎県佐世保市ハウステンボス町1の1という所に
それはある。佐世保市あげての文化遺産(失礼)…、財産というスケールではない。
考古学的遺産というスケールのものである。

パークの中には数々のエンターテイメント・スペースが設けられている。
劇場・巨大帆船をバックにした波止場のステージ、市役所(のレプリカ)を取り囲むパレード。
他にも桟橋の上やらゲートの近くにストリート・パーフォーマー達が点在し、そこは同時に
エンターテイメント・アレンジャーのかっこうの飼場でもあるのだ。
実際このオランダの街並みの中でショーを作っていると、本当、国内留学をしている気分に満たされる
(そりゃそうだ)。
アメリカでオーディションされた20人ほどのシンガー&ダンサーが毎年やって来る。
その他にブラス・オーケストラが約15名、ジャグラーやマジシャンが約5名、全部アメリカ人。
そこに日本人ダンサーが加わって、年間に大小20種類ぐらいのショーを書きおろし、毎日こなしていく。
オランダ人のふりをして。(パレードに参加する馬だけは、本物のオランダ馬だとか聴かされたが…。)

私達エンターテイメント・アレンジャーの仕事も、グランド・ミュージカルから、
たとえば春はスプリング・フラワー・ショー、夏はサマー・ショー、冬はクリスマス・ショー、という具合に
次から次へとショーを構成し、オーケストレーションしていかねばならない。
そんな中で出逢った、若きアメリカ人振り付け師のことをここに紹介したい。

彼の名はデリック・ラサーラ。
見たところラテン系アメリカ人。年齢は私と同じ30代。日本語ダメ、日本食ダメ。
とにかくショーのことしか頭にない。むさぼる様にショーを作り出す。
彼と私が打ち合わせをする時、彼はほぼ完璧にショーのすべてを頭に画いている。
ダンサーの出入りのタイミング、振り付けのイメージはもとより、音楽のつながり方、照明の当て方、
セットは何と何が必要か、その素材は何か、どこで売っていたか、それは予算の何パーセントか、
ということまで……。
そして何より大切な、それが観客にとってどう楽しいのかということを。彼は決して音楽が強い方ではない。
前出のバーネットおばさんの様に作曲したり自ら歌ったりはしないし、譜面も読めない。
ところがいつもびっくりさせられるのは、彼が考え出した構成が実に音楽的、ということだ。
私は只々彼の言う通りにボーカル・スコアーを作成する。

彼のオーダーはこうだ。
「この歌のベースをこの人が何小節歌って、この歌詞の所からデュエットになる。
エイトカウント、ダンサー達の出の音、次に転調してビッグ・オーケストレーション。
サンタクロースの人形が、こういう仕掛けで出て来て、このタイミングでコーラスがハーモニーで…」
という具合。
もし彼の才能を理解しない音楽家が聞いたら、「まあなんと自分の都合で勝手なことを…。」と思うだろう。
しかし、ともかく、彼の言う通りの音楽を実現させてみる。と、あら不思議、実に音の流れにマッチした、
ここぞという所で、あぁそれそれという演出に、まんまと仕上がるのだ。
私はいつも彼の話をききながら、彼のやりたい演出を心に画き、「君のいっているのは、こういことだね。」
とか、「こういう盛り上げ方もあるよ。」とか言いながら、ピアノで弾いて示せばよいのだ。
もうそれだけで、二人の間で完全にショーを観渡すことができる。

ある時、長崎常駐のデリックから緊急の電話が入った。
クリスマス・ショーの音楽構成が自分の発注通りに仕上がって来なかったと言うのだ。
アッキーラのヘルプがアイ・ニードだと…。たまたまその時のアレンジャーは私ではなかった。
とにかく自分のメモを送るという。受け取ってびっくり、そこには曲目のリストと、
それを自分の演出プランに合わせて細かく区切った小節数が、小さな数字と記号で
びっしりと書き連ねてある。オーバーチュアの構成案まで書いてある。

Aの曲で6小節、ビッグ・イントロダクション、Bの曲のリズム4小節、メロディー8小節、テンポマーチに変わり
Cの曲6小節、7小節目で転調、コード盛り上がってDの曲、流れる様なテンポで…etc。

いくら何でも、オーバチュアの音楽構成まで指示されるとは…。
ま、とにかくその通りにピアノ・スケッチを書いてみる。何ともワクワクする。
ほど良いオーバーチュアが又してもまんまと出来上がる。
おそらく彼は何度も何度も自分のショーをイメージし、夢に見て、
天から降って来た音を、彼なりの文字と頭で表したのだろう。
出来上がったスコアーを前に、一人の作曲家である私にちょっと恐ろしい様な戦慄が走る。
夢見る力に境界線はないのだと知る。

「夢見る力」これこそがエンターテイメントの原点である。
音楽と踊りの接点である。
本当の演出力である。

デリックという「夢見る才人」を通して私はそのことに気付く。音楽家としての姿勢を正される思いである。
そもそも彼デリックは、ハウステンボスに流れてくる数年前、我々が東京ディズニーランドで作り上げた、
ワン・マンズ・ドリームに出演し、このショーをプロデュースした渋谷森久氏に会いたい一心で
長崎にやって来たという。
嬉しいじゃないか、日の丸スタッフの作ったショーに、本家のアメリカ人振り付け師が心動かされ、
出島までやって来たのだ。夢に国境はない。

私はそもそも20才の時にバレエのレッスン・ピアニストとしてこの世界に飛び込んだ。
私の「音楽」にはいつも傍らに「踊り」が付いて回った。
そしてその「踊り」の中から、音楽に一番大切なものを教わった気がするのである。
私の奏でる音楽の空気の中で、沢山のダンサー達が舞い、躍動し、駆け抜けていったのだ。
エンターテイメント・アレンジャーとしての至福の瞬間がそこにはある。
「踊り」とは譜面のない「音楽」だものなぁ。そして「音楽」こそ「演出」なのだ。

了(出展:日本作編曲家協会「JCAA JOURNAL」1994年11月発行)4

大阪フィル・ポップス・コンサートを手掛けるようになってかれこれ12年。
このコンサートは春と秋の年二回行われ、リピート客も多い。編曲と指揮を受け持つ私の責任は重い。
が、そこは大阪、ブレーンやスタッフのノリもよく、面白いアイデアだとオーケストラの団員達も
乗って来るからやり易い。5年目の10回公演を記念して選曲したのが、ビートルズの「ヘイ・ジュード」であった(???)。
10年目の20回公演の時には同じ曲を「祝10周年!ヘイ・ニジュード(20度)」としてプログラムに載せた。
ならばアレンジは、パイプオルガンまでひっぱり出し、100人のオーケストラで荘厳に・・・と
アイデアの連鎖がおきる。準備は大変で、かつ楽しい。

「ワンマンズドリーム」の制作と期を同じくして、私はもうひとつの日米合同プロジェクトに参加することになった。
大阪は吉本興業N.G.K.シアターの柿落としとして、ニューヨークからタップの鉄人ヒントンバトルを招いて
「これぞアメリカ!」というバラエティーショーを作るのだという。
その名も「アメリカン・バラエティー・バング」
またもやプロデューサーは渋谷森久氏だ。
全く氏と円高のおかげで私は又しても国内留学のチャンスを得たのだった。

今回、曲はガーシュインからマドンナまで、アメリカを代表する古今の名曲をちりばめた、つまり有り物であるが、
アメリカから二人のアレンジャーがやって来て、それらを全く新しいショーに仕立て上げていった。
ボーカルアレンジメントのマービン・レアードとダンスアレンジメントのマーク・ハミルである。
そこに私がオーケストレイターとして加わったのだ。
一つのショーの音楽の為に、アレンジャーが三人。しかもそれぞれが別の作業をする。
東京でもショーのアレンジを複数のアレンジャーでやることはあるが、大抵は一景ずつ(一場面ごと)の
受け持ちとなる。ところがアメリカ式はさにあらず!
「基礎工事」「棟上げ」「内装」といった流れ作業で音楽が出来上がっていくのだ。
このシステムこそアメリカン・エンターテイメント・ミュージックの秘密を探る上での重要なポイントであることは
間違いない。

それではここにその三人のアレンジャーの協同作業の様子を記そう。
ああ、いつか私はこの面白いシステムのことを皆に教えようと思っていた。(やっとそのチャンスが来たのだ。)

私が彼等と初めて出逢ったのは、L.A郊外のレッスンスタジオであった。
「アメリカン・バラエティー・バング」のゲスト出演者を、振り付けのウォルターペインター氏、演出の高平哲郎氏、
もちろんプロデューサーの渋谷氏と私も含めて、皆でオーディションしていた時だ。
マーク・ハミルはそのオーディションピアノを弾いていた。
(ちなみにオーディションを受けているのは映画「ウエストサイドストーリー」のアニタ役リタ・モレノであった。
リタ・モレノを日の丸スタッフがオーディション??円は強し!!)
ニューヨークから来た、栗毛を後ろで結わいたピアス男、これがマークだ。
ウエストサイドのピアノスコアをこともなげに弾いていた。
マービン・レアードの方は完全白髪のハンサムな紳士。
名刺がわりに差し出した私の編曲したテープを、5分ほど目をつぶって聴き、にっこり笑って握手してくれた。
そして実はもう一人、どこかで見た様な俳優顔のドラマー、カビー・オブライアンがオーディションドラムを
たたいていた。(この人が後で大変な人物だと解るのだが…)
L.A.ではその他のダンサーのオーディション、スケジュールの打ち合わせ、プロジェクト開始のパーティー等を
行って、一行は一路吉本興業の本拠地、大阪へ…。
飛行機の中には、アメリカ人ダンサー約20名、セット・デザイナー、振り付け師とその助手、上記のアレンジャー
2名にドラマー、まるで貿易不均衡是正の為に、渋谷氏がこれらの才能を買い付けに行ったかたちだ。
私達日本組も大変だ。L.A.→成田→自宅(荷物をつめかえ)→羽田→大阪というスケジュール。
その先2週間でショーを作り、東京にもどって録音、4週間後には初日という、日米合同それ行け!状態。
これも又、渋谷氏の得意技だ。

大阪にて。
私はなんばのN.G.K.シアターと上本町のホテルの間を行ったり来たりするハメになった。
アレンジャー3人組の仕事運びはこうだ。
まず白髪のマービンが劇場裏のプレハブの作業場を確保した。
ここで彼は、台本上の曲目を三段譜のピアノ&ボーカルスコアにしていく。役者のキイのこと、歌詞のどこから
どこまでを誰に歌わせるか、イントロから転換のモチーフまで、ここでショーの構成が決まってくる。
仕事は実に具体的かつ詳細だ。空白だらけ、コードネームだけという様な代物ではない。
そこには彼が一人の作曲家として取り組んだあとがある。ショーのアイデアが、
台本から楽譜に生まれ変わったのだ。

続いてはピアス男・マークの出番だ。マービンの作ったボーカル・スコアをもとに、劇場内で歌稽古、
続いて振り付けに入る。ここで、振り付け師の要求とマービンのスコアーが統合され、新たにダンス・シーンが
創造されていく。その統合役がマークの仕事だ。
振り付け師が「そこアクセント!」と言えば付け加え、「あと二小節こんな感じでのばして!」といわれれば即作り、
ともかく皆の要求を満たし、なおかつ自分でも納得のいくカッコイイ音楽に仕立て直さなくてはいけない。
この音の仮縫いが、いわゆるダンス・アレンジメントというやつである。
普通マークの様に、振り付けと同時にピアノを弾きながら即興で行われていく。
振り付け師が考えているちょっとの隙に、今自分が弾いたことをメモし、次なる展開を考え、
それをメモしようとえんぴつを指にはさんだ瞬間、「O.K.Everbody!FromTop!」といわれるままに、♪ジャーン♪、
指はピアノへ、えんぴつは口へ。間が悪いとぜったい出来ない仕事である。

私は毎朝、まずマービンの作業場へ立ち寄る。
オーケストレーションの打ち合わせだ。
「ここはこんな感じ…。」と歌と華麗なピアノで聴かせてくれる。
日本式緑色のスリッパでピアノのペダルを踏むこの白髪の紳士に私は妙な親しみを覚える。

次に渡り廊下を通って劇場へ。
マークのピアノとカビーのドラムでお稽古の真っ最中。
中断して去日出来たところまでの振り付けをわざわざ私の為に見せてくれる。
ピアノとドラムだけの演奏なのにダンスがすばらしくカッコよく見える。
しかと目に焼き付けてホテルへもどり、オーケストレーション用の22段の五線紙に向かう。
しかしイメージがハッキリしているから、自分の仕事に張りがある。
彼等二人のアレンジャーが各小節どんなつもりで作ったのかを読みとり、振り付けを思い出しながら、
自分のアイデアを盛り込んでいく。
「仕上げ」という役どころだ。

こうして2週間のスクランブル・アレンジ作戦の末、晴れて録音へ…。

マービンがタクトを取り、カビーはドラム・ブースへ、マークがコーラス・パートを多重録音と作業は続く。
皆、私が日の丸の鉢巻きをキュッとしめ直し書いたオーケストレーションを手をたたいて喜んでくれた。
お役に立った様でほっとした。
さて、今回のプロジェクトで日米の差を象徴していたのが、ドラマーのカビーの存在だった。
カビー・オブライアン…
TV番組ミッキーマウス・クラブで天才少年ドラマーとしてデビューした彼を知らないアメリカ人は少ない。
カーペンターズ、アンディ・ウイリアムス、シャーリー・マクレーン等のツアーで20回も来日している。
そのカビーがリハーサルドラマーをやっていたのだ…。
振り付けのアクセントを書き込んだ自筆のドラム譜を、参考にしてくれと私に渡す。
振り付けの最中、待たされる時間は長ければ一時間にも及ぶ。
その間じっと待って戦況を見守り、「FromTop!」で♪デケデケデンデン♪またもや
「Stop!(Hold!)」でピタッと止まって…日本だったら「やってらんねえよ。」の世界。
しかし、それは単に彼が良い人だから付き合っているのではない。それがアメリカ式の常識だからだ。

「常識」…この違いが時に羨ましく、時に私を憂鬱にさせるのだ。
円は強し、されどこの溝はそう簡単には埋まらない。(出展:日本作編曲家協会「JCAA JOURNAL」1994年11月発行)3

東京ディズニーランドの「ワンマンズドリーム」
総上演回数は5000回。今回はこの超ロングラン・レビュー・ショーの制作過程で私が見た事、学んだ事をお話ししよう。

1987年夏、私は前出の渋谷森久氏に手を引かれる様にして、L.A.へと渡った。
本家ディズニーランドの演出兼振り付け師、ミス・バーネット・リッチーに会う為である。
渋谷氏は、このショーの発案者、そして共同演出家である。
「OneMan」とはウォルト・ディズニー氏の事で、「一人の夢」と題し、ウォルト・ディズニーの作った映画の名場面を、
歌と踊りで再構成し、30分のショーに仕上げるのだ、と渋谷氏から聞かされる。
そしてこのバーネットおばさんこそ、前回お話しした「ディズニーランド・イズ・ユア・ランド」を作った張本人である。
さて本場ではどんな手順でショーを作っているのであろうか……。
日の丸エンターテイメント・アレンジャーは、初めての国外留学となった。

30分のショーの音楽打ち合わせ、というと「3時間はかかるかな?」と思ってしまうのが日本式であるが、
このL.A.での打ち合わせは延べ10日間にも及んだ(後半は後日東京で行われたが)。

ディズニー本社に隣接するホテルの一室で朝は10時から、昼食をはさんで4時頃までピアノを囲んでの打ち合わせ。
夜は一人部屋にこもり、打ち合わせの結果を3段譜のピアノスケッチにまとめる。
次の日はそのスケッチの確認から始まって次のメニューへ……、という繰り返し。
私にとっては正に「修業」の10日間であった。こういうのを音楽打ち合わせ、などと呼んでしまっていいのであろうか……。
しかし悲しいかな日本ではそうとしか呼び名がない。彼等はプリプロダクションと呼んでいた。

さてそのプリプロであるが、その中でのバーネットおばさんが何せすごかったのでここに詳しく記そう。
まず第一日目、おばさんは「OneMan’sDream」というテーマ曲を作った(正確には思い浮かんだ)というので、
それを譜面にしてくれという……。おばさんが綺麗なソプラノで歌い、私が採譜した。ピアノでコードを付けながら、
「アキィーラ、ノーノー、ディファレンステンション。オーイェス、ザッツコゥレクト、ベェリィグゥ」などと言いながら
おばさんは、オープニングのテーマ曲を作曲してしまった。もちろん歌詞も同時にである。
おばさんの演出ノートには、既に何通りもの歌詞が走り書きされていた。一介の振り付け師が…である。
こういう形で音楽制作に入り込んでくるのである。まぁ考えてみれば、音楽はショー全体の地図である。
音楽を作る事がショーを作る事なのだから、まぁ当然か。この際肩書きは関係ない。

二日目はキャプテンフックと海賊達のシーンのダンスアレンジメント。
まず大きな海賊船のセットがこれこれこうして現れるから、その間30秒イントロダクションプリーズ、と
言われるままピアノへ。
「ノーノー、アッキィラー、モーア、ビッガーパイレッツシップユーノー」「オッオオケイ」
♪ジャンジャジャ~ン
「ノーノーキープエナジースルーサーティーセカンド、アッキィーラー」
♪ジャンジャジャ~ンジャジャジャジャ~ン転調してジャンジャジャ~ン
「オーケーアッキィーラーザーッツイナァフ!」
てな調子。

次に4人の海賊、こんな風に下手から登場。
宝の箱を開ける音。
ワーィとさわぐ2小節の次に、フック登場3小節。
あわてて箱閉める3拍で充分、
等々。ピアノで次々答える私の横で、ふと見るとおばさんは一点凝視……
あきらかに彼女は今、自分のショーを観ている。そのシーンを、そのステップを、一点の曇りもなく……。

こうしてわずか3分位の音楽を一日かがりで彼女の空想の通りにすり合わせていく。
そのうちこっちもだいぶ信用されたのか、翌日までにこの後のフックとピーターパンの戦う1分間の音楽を
アッキィーラーが考えておくことになった。
翌日、スケッチを弾いて聴かせる。すかさずおばさんは
「そこはピーターがやられそうになっているところだから、プリーズホールドディスコードウィズトュリル~~~」
てなことを言う。今弾いて聴かせたばっかなのに、もうこの人は具体的な絵を見ながら聴いている……。
ナンテコッタァ……イヤマイッタ。

私は結論する。
絵を作る時どれだけ音が聞こえているか、音を作る時どれだけ絵が見えているか、
この2つの分野の具体的オーバーラップがエンターテイメント濃度の濃い作品を生み出すのだと。

こうして10日間、私は30分のショーのピアノスケッチを書き上げた。これだ、こうやって作るのだ。
この何十ページかに及ぶピアノスケッチが、何か東京ディズニーランドの重要機密書類の暗号文の様に思われた。
いとおしくさえあった。

打ち合わせの最終日は、区切りとして例のホテルの一室で、他のスタッフ達を招いた新作発表会で締め括る。
バーネットおばさんが歌い、私がピアノを弾き、渋谷氏がストコフスキーよろしく棒を振り解説を加える。
このあとに何週間にもおよぶ実際の振り付け、オーケストレーション、そして録音とハードなスケジュールが
待ち構えているのだが、さすがにこの日、我々はシャンパンに酔いしれた。そしてこのショーの成功を確信した。(出展:日本作編曲家協会「JCAA JOURNAL」1994年11月発行)2

ミュージカルにせよ、ショーにせよ、一時間半から二時間の音楽を編むということは偉大な仕事である。
ショーの成功は音楽の運びによって決定づけられるからである。
一晩に千人もの客(赤の他人)からそれぞれ八千円も九千円も頂いてみせるわけだから何とも責任が重い。
スリルはあるか、音の厚みは充分か、歌詞は良く聞こえるか、ダンスにはピッタリ合っているか、厭きないか、
そして充分盛り上がったか……。アレンジャーの役目は、多岐にわたる。

私がこの仕事をはじめたのは12年前、なんと21才の時であった。
(注:この文、初出は今現在(2009年)より15年ほど前)
今思えばプロデューサーの渋谷森久氏は、この若僧によくもこんな偉大な仕事を任せたもんである。
きっと演出家やプロデューサーの思った通りの音を作るには若いということはこの際どうでもよかったのであろう。
要は空想力に長けていればいいのだから。

渋谷氏は、当時42才。東芝EMIの名物プロデューサーであった彼を知る人は読者にも多いはずだ。
音大生であった私をひろって下さった。
私は、この前ハービー・メイソンと食事をしたとか、スティーブ・ガットとリチャード・ティーとレコーディングをしたとか、
ミッシェル・ルグランと打ち合わせをした時はこうだったとか、マイケル・ベネットはオレにこう言ったんだよとか
そういう普通の人なら一大事をこともなげに話す渋谷氏を、最初怪物かと思った。
少なくともその長身と色黒のせいで日本人には見えなかった。
こんな仕事をしている人が日本にもいるんだなァと思った。
それから42才と聞いて二度びっくり。昭和生まれかどうかも怪しいと思っていたからなのだ。
さて、ともかく渋谷氏と私は出逢った。そして、エンターテイメント・アレンジャーの道を私はその時登りはじめたのである。

最初のカルチャーショックはディズニーランドで待っていた。
1982年東京ディズニーランド開園の準備をすすめていた渋谷氏と私は、当然の事ながらアメリカから送られてくるスコアーと
格闘する事になった。こういうショーをカルフォルニアのディズニーランドではやっています。
日本で作る時もせめてこのレベルで作ってねと、言わんばかりにスコアーがどっさり届いた。
我々をからかっていると思える位、よく出来た物ばかりであった。
何せ、カーメン・ドラゴンの手によるフルオケ用のZipADeeDooDahだの、
アメリカの伝統芸であるサキソフォン5人の為のラグタイムだの、今だに私の中で教科書的な価値の物ばかりだ。
その中でも我々の度肝を抜いたのが、8人のコーラスグループがイッツ・ア・スモール・ワールドのステージで歌い踊る
25分間のショー「ディズニーランド・イズ・ユア・ランド」のボーカルスコアーであった。25分間歌いっぱなし。
30曲近いディズニー映画の音楽のメドレーであった。
バンドは10人位の簡素な編成で、ほとんどが巧みなコーラスアレンジで運ばれていく。
「巧み」……まさにこの一言であった。

アーとかウーとかいうのがコーラスだと思っていた日の丸アレンジャーにはショックであった。
ボイスィング、フレージング、カウンター、どこのどの小節をとっても鮮烈であった。
そしてなによりもその運び、曲の盛り上がり方が私にはショックだった。
聴き手が絶対に飽きない様な転調、リズムの変化、ある時は意表をつき、最後はこれでもかと盛り上げる、あっという間の25分。

一体どうやってこのメドレーを作ったのだろう。誰がどんな手順で作ったのだろう。
人間一人が一生懸命作って出来る範囲を明らかに越えた作品であった。
そのナゾが、5年後、「ワンマンズドリーム」という新作ショーの制作課程で、明らかになっていく。(出展:日本作編曲家協会「JCAA JOURNAL」1994年11月発行)1