大いなる音楽の効用

しかし、ここからが本当の勝負であった。
大きな仕事を成し遂げようとしている時、急に魔がさすことがある。
おいしいおいしいとサンドイッチを食べ進み、最後にパンの耳のところへ来て急に食べたくなくなるのと同じである。
山は9合目まで登ってやっと半分来たと思え、というではないか。
しかし、我らがミュージカル・ザ・ヒットパレード、初日を目前にしてそんな気の抜ける隙間は一瞬たりともなかった。

そのことは26日のバンド・リハーサルの日に思い知らされた。
私はこの60日間、ヒットパレードという作品にイメージを集中し、苦楽を味わい、生活を共にしてきた。
戦後のジャズマンの歴史から、今この自分の生きている音楽の時間までを、ありありと心で描いてきた。
そこにはジャズの喜びがあり、ジャズの豊かさがあり、一方でジャズのはかなさがあり、ジャズの怖さがあった。
そして何といってもジャズの歴史があった。ジャズは変化し発展を遂げ、楽しみ方やスタイルは多様化した。
しかし譜面に記されたそれは、あくまで音符であって、ジャズではない。本当の音楽が生まれるのはここからなのだ。
たとえばある曲をグレンミラースタイルで演奏しなくてはならない、が次の曲のイントロはデキシースタイル、
間奏はエリントンの前期の感じで・・・。と、私の注文は細かいのだ。同じジャズでも楽しみ方が違う。
プレーする時の体の動かし方や、顔の表情までちょっとずつ違う。もちろんプレーヤーの奏でる音色も違う。
こんな私の2ヶ月分の想いをすべて、ミュージシャンに伝えなくてはならないのだ。
もちろんジャズの好きな、ジャズの上手なプレーヤーばかりに集まってもらったのだが、
私の細かさとしつこさには彼等も閉口したに違いない。
幸いにも今回、長年日本の音楽シーンをリードし続ける名トランペッター数原晋さんを、バンドの一員として
迎え入れることができた。
サキソフォンにも私が一番信頼している平原まことさんと近藤淳さんのお二人に御登板願い、それが叶った。
もしも彼等の協力がなければ、この上演は間に合わなかったろう。

初日前のゲネプロを見て、プロデューサーの渡辺ミキが真っ先にバンド楽屋に飛び込んで来た。
「皆さんの演奏を聴いて、この芸能界という世界を最初に創ったのは
ミュージシャン達だったんだ、ということをハッキリと再確認しました。」と皆の前で伝えた。
私は長い間、のどの裏側にひっかかっていた飲み込めない何かがズルズルと腑に落ちていくのを感じていた。
私は彼女を信頼する。実は私と彼女は幼なじみである。3~4歳の頃から知っている。
しかし、仕事をしたのはこれが初めて。46年目の初仕事。
渡辺晋や宮川泰が居たから私たちは今ここに居る。
もしかして私たちは、この日のためにお互いの経験とやる気を積み上げてきたのかもしれない。

初日から楽日まで、私達は全公演、そんなプライドをもって演じることができた。超豪華なセットも群舞もない。
が、カーテンコールで整列する14人のシンガー(役者)と10人のミュージシャンの背中に、
これがSHOWの原点・・・という確かな感触と誇りが溢れていた。
46年目の奇跡。
音楽の神様の粋なはからいか・・・。

今回フジテレビの中村さんとも久方ぶりの再会を果たした。
GANKUTSU-OH のプロデューサーとして初めてお会いしたのは私が30歳の時。16年前である。
そのGANKUTSU-OH は、まさに20代の私の総括のような作品だった。
ミュージカルのプロットとテーマとなる曲2曲を作るのに約3ヶ月、ボーカルスコアーを作る、
つまり作曲するのに約1ヶ月、オーケストレーションにやはり約1ヶ月かかったのを覚えている。

オーケストレーション、日本ではアレンジと呼ばれてしまう工程が、作曲の中で一番の難関であり、
根気のいるところであり、時間との勝負でもある。
なにせボーカルスコアーの時点で3段譜15ページだったメドレー曲は、
オーケストラスコアーに形を変えると、18段譜60ページぐらいにかさが増してしまう。
伴奏を受けもつオーケストラのメンバー 一人一人に2時間~3時間分のセリフを与えるようなものだ、
と思って取り組めば、実にやりがいのある仕事なのだが、電話帳2冊分ぐらいのスコアーを
一曲一曲丹念に仕上げていくというのはやはりかなりの重労働なのだ。
しかもこうして作り上げられたスコアーは、日本では印税を稼がない。
労多くして何とか・・・というやつだ。これでは人が育たない。
必然的に日本の作曲家の多くは、ありとあらゆる仕事をかけもちし、
ひとつの仕事に1ヶ月という時間を集中させることさえ難しい。
案の定・・・というか、こんなはずじゃなかった・・・というか、
ヒットパレードのオーケストレーションに充てられた時間はほんのわずかであった。
そのことだけに集中できる日というのは正味5日間ぐらいしかなく、
他の日は、別の仕事のリハーサルや録音、コンサート出演・・・と絢爛豪華な繁盛ぶりであった。
あとは朝起きてから出かけるまでの2時間、リハーサルの合間の30分、など、
その日その日で工夫を凝らし、お手伝いの人材も確保して、
何とか26日の音合わせに間に合わせた。
今振り返ってスケジュール帳を眺めても、これは奇跡としかみえない。

実はこの技は前段階の、ボーカルスコアーの時点で種が撒かれている。
以前書いたように、ミュージカルのボーカルスコアーというものは、メロディーラインの他に、
コーラスのパートやピアノ伴奏のパートも含まれている。
オーケストラの中のピアニスト(私)にはこのピアノパートを見て弾いてもらえば充分で、
さらに、ほとんどの小節で、このピアノの左手部分はベースラインと等しいわけで、
つまり10人分のオーケストラ(バンド)のうち2人のパートはもう既に前の月に
出来上がっていた、というわけである。
ボーカルスコアーというものの重要性が分かっていただけるであろうか。
ウエストサイドストーリーであれ、コーラスラインであれ、楽譜店の二階などに置いてある
この輸入版のボーカルスコアーを手に入れれば、ピアノ一台でミュージカルが出来るのである。
歌のレッスン、振付、場面の稽古から衣装を着けた通し稽古まで、
これ一冊とピアノ一台で楽しめる、というわけだ。
6畳一間のアパートが、突然マンハッタンの高速道路下のフェンスになったり、
南太平洋の秘境になったりするのだョ。
「ボーカルスコアーこそ我がライフワーク」
6月26日、98%完成。

たとえば15秒のC.M.のための音楽を書くときは、15秒の感覚、というものがある。
当たり前だが15秒がどんな15秒だったか、という印象が問題なわけだから、
15秒間という時間を見渡す、ということが必要だ。
歌謡曲なら3分。3曲のメドレーなら5~6分、という時間を見渡しつつ音楽を構築していく。
音楽を作る上で最も当たり前なことのひとつだ。
これが15分のメドレーだとどうなるか・・・。
最後の3分間の盛り上げは、これでいいだろうか・・・。
しかし、頭っから歌って聴いてみないことには、その判断はつかない。
そこでもう一度頭っからピアノで弾いてみるのだが、なんせ15ページにもなるので
譜面をめくるだけでも厄介だ。おまけに電話はかかってくるし、
『ご飯よ~』の声が聞こえたり。
どうにか弾き終わるんだが、先の12分と後の3分のつなぎは4小節がいいか、2小節がいいか、
あるいは唐突な方がよりいいか・・・。
いやまてよ、ところで舞台上は、今誰が歌ってんだっけ・・・さっきもこの人歌ったろ・・・
そろそろこっちの人にもソロを歌わせた方がいっかぁ・・・。あ、そうすると、このキイじゃだめだなぁ・・・。
こうしてまだスケッチ段階のメドレーは、完全な楽譜にならぬまま振り出しへもどり、
とにかくイントロからもう一回、その気になってピアノをジャジャーン・・・。
全くメドレーは完成すればこんなに楽しい音楽はないのだが、準備の段階ではこんなものなのである。
牛歩・・・というよりか、これも『反芻』といった方が正しい。

さて、苦労の末どうにかボーカルスコアーを完成させ、自分で歌ったテープを作り、
渡辺エンターテインメントの事務所へ送る。今まで作ったオリジナル曲も、
すべてこうして自作のデモテープを作ってきた。のだが、ここではじめて
プロデューサーから「待った!」がかかった。プロデューサーと作家は同じ意見らしかった。
「もっと大タンに!」「おもちゃ箱をひっくり返したようなメドレーに!」
ふ~む、確かに身に覚えがある。私はちょっと律儀なメドレーを作ってしまったかもしれない。
というのは、実在のヒットパレードを意識せざるを得なかったからだ。
昭和34年から45年までオンエアーされていたこの番組に、天地真理や小柳ルミ子はもちろん出演していない。
そんなことは先刻承知。
その上でファンタジーを作ろうとしていたはずなのに、いざ作業に入ると、このことをなかなか無視できない。
こんな名曲達を感性だけで並べたりカットしたりすると、バチが当たりそうな気がしてくるのだ。
偉大な作詞家・作曲家の先人たちから、ふくろだたきに遭いそうな気がしてくるのであった。
そんなわけでプロデューサーと作家のお二人から「ちょっとまともすぎる・・・」とダメが出たのも当然。
既に私にも覚えがあった、というわけだ。

さて、で、どうするか・・・。一応手がかかっている労作だから、良いところは残す。
で、ここからがすごかった。まずオーラスの「タイガース・パート」を中盤にもってきて、
中攻めだった「若いってすばらしい」をしめくくりに使ったら・・・?というアイデアを
鈴木さんが出した。そしてこういう要望も出た。
あと10曲くらい、ポンポンポ~ンと切り替わっていくような部分を作れないか、と。
確かに「タイガース」で終わるより「若いってすばらしい」で終わる方が、芝居のテーマとも重なり素敵だった。
しかし既に16曲あるこのメドレーにあと10曲突っ込む・・・というのはどうか・・・
いくらなんでも飽きないか・・・いや、ずっとバンドが伴奏し続けるから飽きるんだ。
思い切ってアカペラにしてみたら・・・いける!! 
私は稽古場を飛び出して即帰宅。そこから集中して次の日の稽古にこのメドレー完成版を間に合わせた。
完成したメドレーは、16曲+10曲で26曲、時間はきっちり15分。588小節。
こうして単なる年表メドレーになることもなく、皆の記憶の断片をつなぎ合わせたような
ワクワクのてんこ盛りで、より遠くにボールを飛ばすことに成功した。

5月26日、M-15「エニシング・ゴーズ」M-16「Get Back Good Days」まで完成。
6月1日には毎年恒例のクインテット・コンサート・シーンの録音があるため、
しばしこっちのおもちゃ箱にはふたを。
別のおもちゃ箱のふたを開ける。
おや~っ、こっちのカラータイマーもピコピコ鳴ってやがるー!! 
5月が31日まであることに感謝。

5月に入り、あらかじめ決まっていた予定通りにコンサートツアーが始まった。
この間をぬうようにして作曲を進めなくてはならない。
電車の中、散歩の途中、すべての時間が鼻歌タイム。
幸い、鈴木聡さんの歌詞は作曲しやすい。
文学作品(文語)としての詩が一方にあり、歌うための定型詞という造りがもう一方にあるとすれば、
聡さんの詞はもうひとつ口語寄りである。言い方を変えれば、オリジナル作詞であるのに、
すでに替え歌のような、語感重視のテンポがある。
あとは私に素敵なメロディーさえ訪れれば、なんとか音符にはまってしまうというわけだ。
これぞミュージカル作詞の真骨頂、長年の経験と、幼い頃からの夢が、ここに実を結んでいる。

聞くところによると鈴木聡さんも大のミュージカル少年だったそうだ。
「ミュージカル少年」というと、ミュージカルを観たり出たりする少年という意味もあろうが、
ここでの意味は「表現手段がミュージカル」という少年の意味である。
かく言う私も中学時代、バンドのオリジナル曲は途中でセリフになるミュージカル調であったし、
鈴木氏も高校時代の処女作はやはりミュージカルで、しかも彼の作・作詞・作曲・主演であったらしい。

そんなわけで私は、何曲かの歌詞を頭の中にしまい込み、どこにいても思いついたメロディーを常に反芻し、
吟味していた。5月7日は大阪フィルハーモニーとのレコーディング・セッション。
夜のミーティング終了後、ホテルから夜のお散歩。
ヨドバシカメラに向かう長~いトンネルの中で訪れたのがM-11「ピーナッツ・イン・アメリカ」。
曲中の「福神漬」のくだりがかわいらしい。ザ・ピーナッツが成功して安定飛行に入り、
もはや生活観や懐かしさを醸し出しはじめた・・・という実にリラックスした曲調である。
ブロードウェイミュージカル「I DO I DO」の中の「去年(こぞ)の雪(ゆき)いま何処(いずこ)」
という曲をどこかで思い出しつつ、鼻歌の旅は続く。

私の作曲のプロセスはいつもこんなだ。
台本を初見し、その時ピンと来た音を音符に書き留める(この時は台本に鉛筆で五線を引く)。
その断片を散歩中などに反芻。色々と曲が一人歩きの旅をして、ようやくピアノの前に戻ってくる。
ほとんど紡ぎ上がったそのメロディーを確認しつつ、市販の五線紙へ。
4分の2拍子にしようか2分の2拍子にしようか、ここで転調してこの高さになろうか、
この繰り返しの間にこのセリフを入れようとか、ここでようやくすべてが決まる。
作曲とは時間の演出・・・という名言はここで生まれたのだ。
5月4日~5月6日まではアンサンブル・ベガの全員と楽しい演奏旅行。
この間、私の頭の中味はポーカーの曲M-2「スマイルでいこう」。
リハーサルの間も自然反芻。6日は本拠地、宝塚での演奏会。
その夜は先の大フィルレコーディングのために大阪泊りのため、コンサートの後も飲み会には出ずに
M-2の最後の8小節をベガホールの練習室で完成させて、譜面ケースにしまう。

5月12日~13日は平原まことさんとの演奏小旅行。大好きな新潟へ。
頭の中はM-8「昭和33年の東京」。リハーサルの合間に、それとなくピアノで弾いてみる。
が、平原さん無反応。
実は今回のミュージカルのオーケストラの仕事を、不躾ではあったが平原さんにもお願いしてあった。
心の中では『あと2ヶ月したら、毎日演奏させられる曲ですよ~今の。』
作り手の特権はこの誰よりも早く、心で観て心で聴いて楽しめる、ということだろう。
旅行気分は鼻歌気分。

ヒットパレード取材、と称して、鈴木聡・渡辺ミキ両氏と対談。
春らしく黄色いシャツをクリーニングのビニールから出して着る。
終了後、制作の奈緒子さんとスケジュール確認。顔を見合わせる。
5月、半分はコンサートなどで埋まっている。6月、ほぼ3分の2が埋まっている。
ヒットパレードのお稽古にはほとんど顔も出せない。冷や汗がツーッとほほを伝う。
4月17日、一曲もまだ生まれていない。

最初のひらめきはその3日後には訪れていた。
「題名のない音楽会21」2週分の収録を終えた4月20日、
M-1「ギブ・ミー・ミュージック」の作曲にとりかかる。
作曲といっても、この一曲で台本の10ページ分が費やされている。
戯曲ではなく、完全なミュージカル台本である。
一番を半分歌ったところでシンさんと山崎のセリフ、あとの半分を歌った後で
ミサさんと洋子の芝居、やっと二番を歌い切るやいなや第一のメドレーへ突入。
このオーバーチュアー代わりのメドレーが難問ではあるが、
そこまでのメロディーは歌詞を一読しただけで聞こえてきた。
♪ミ・レ・ドー・ミ・レ・ドー・ミ・ソ・ソー♪
古めかしくて愛嬌があって、どこかで聞いたようで新鮮。
こんなメロディーが無理なくやって来たことが嬉しい。
あえて誰風といえば「宮川泰風」か。

メドレーの部分を考えながら感じたのだが、これは大変な作業だぞ、と改めて思い知る。
RAG FAIR 6人のパートをボーカルスコアーの中に編み込まなくてはいけないからだ。
しかしこれが今回のミュージカルの独自な部分なのだ。
6声のコーラスが自在に舞台上で物語を進めていく。時には主役の背後でスウィーティーな
コーラスを付け、時に重唱になり輪唱になり、6声のメロディーを歌う。
舞台上では当然暗譜(譜面を見ないで歌う)であるから、練習のためにイの一番に
彼らのパートを完成させねばならない。メロディーを作るだけではないのだ。

最初のひらめきから10日間(平原さんとのセッションCDの録音、ヒットパレード制作発表、
クインテットの収録等、同時進行ではあったが)、4月30日、ようやくM-1が完成した。

5月1日、さっそく出来たばかりの「ギブ・ミー・ミュージック」を
演出家山田和也氏とプロデューサー渡辺ミキさんに聞かせる。
この日は1幕ラストの15分メドレーの選曲会議であったのだが、
私は「とにかく聴いてくれ」とばかり、練習室のピアノを横取りして、
そこに居合わせたスタッフ全員の前で唄ってきかせる。
オリジナルミュージカル制作過程で、もっともスリリングで、
もっともクリエイティブで、もっとも幸せな時間である。
ショーが動きだした日。
スタッフ全員、目を輝かせ、というよりも、すでに目頭を熱くしている。
が、一番熱くなったのは私。「こんな曲が出来るなんて・・・」という感謝のような感覚。
そしてそのことを私と同じく、あるいはそれ以上に理解したプロデューサー。
お互い知り合って46年目の初仕事。ベストパートナーの予感。

それにしても時間がない。その日打ち合わせたメドレーのメニューを見るだけで気が遠くなる。
15分=20曲のメドレーのスコアーを書かねばならない・・・
しかもこれが氷山の一角という現実。

舞台音楽家をやっていると大変気になることがある、それは日々のくらしの中で耳にする、言葉のイントネーションである。
単純に方言や流行ではおさまらない、特に外来語のイントネーションには思うところがある。プロデューサーにディレクター、英語に近い発音をすればプロデューサーにディクター(太字部分を高く発音、以下同様)
となり、私は昭和36年生まれだが、そう耳にして育った気がする。
それがいつのまにか尻上り、プロデューサーにディレクター、になってしまった。
しかし農作業のトクターのことをトラクター、とは今でも言わない。きょうびの農家では言うのでしょうか・・・。

では何故こういう尻上りイントネーションになってしまったのか。
私の記憶の中で決定的だったのは、中学生の時先輩と一緒にエレキギターのカタログを見入っていた時である。
「センパイ、やっぱカッコイイですねぇ、フェンダーのギターは・・・」
「ちょっとまて、フェンダーじゃなくてフェンダーだろ」
「・・・」
「ついでに言っておくとブソンじゃなくてギブソンだぞ」
「・・・じゃ、エリック・クプトンは・・・」
「バカ、クラプトンだろ」
「(やっぱり・・・)」
先輩が自慢気にエリック・クラプトンの話をする時、きまってイントネーションは尻上りで平らなクラプトンになっていた。
それは尊敬や憧れの念を通り越して、アイドルに対する愛情、親近感、が込められていた。
「クラプトンのさぁ、クリームのL.P.聴いた。スンゲェ早弾き・・・」
前出のフェンダーも、レオ・フェンダーという人が創立者だから正確にはフェンダーだと思うのだが、エレキが好きで好きで、
ねてもさめてもフェンダーという心理の中で、ついに発音の常識に異変がおきるのではないか。
ついでに言うと、車のS字クランクのことをきっと教習所の先生達はクランクというに違いない。
海沿いの貸し倉庫業界ではトランクをトランクと発音しているかもしれない。
昔私の通っていたヨガスクールの先生も、タオルのことをタオルと呼んでいたから。
「トオル君」「ハーイ」「タオル君」「ハーイ」と返事が聴こえて来そう。
すべてはその人にとっての「身近さ」・「親近感」が込められてそうなって来る。
「テレビ?OK、OK!オレのさぁ、知り合いのさぁ、プロデューサーがさぁ・・・」なんて表現にはピッタリのメロディである。

以上、どうでもいいといえば、どうでもいいのだが、ハタと困るのがミュージカル風のものを作曲している時である。
舞台では何と歌っているのかが耳で瞬時に解らないといけない。
時代によってイントネーションが違っては大問題である。
♪一杯の~コーヒから~・・・ 服部良一作曲のこのメロディ、子供のころはコーヒのところが「ン?」と思えたが、
今考えてみるとこの方が Coffee に近い。あれれ、時代によって違うのはこっちの耳の方か・・・。

「マハリーク マハーリタ ヤンバラヤンヤンヤン・・・」これで分かる方は私と同世代。
カラーアニメーション創成期の傑作「魔法使いサリー」のテーマ曲である。
ムダのないキャラクター設定、ただの優等生ではない主人公サリーちゃんのユーモア。
ヨシコちゃんとスミレちゃんの「長屋」対「白亜の殿堂」が学校で交わるところにもイヤミがなく、愉快さが残る。
少女マンガと分かってはいたが、最終回では泣いてしまった。
いくら絵が古く汚くなっていても、たまには再放送して欲しい。

このサリーちゃんの後を受けて立ったのが「テクマクマヤコン」の「秘密のアッコちゃん」であった。
こちらの方が世間的には成功したように思えたが、作品が心に訴えるものとしては
前作の方がはるかに奥深く感じたものだ。

当時から私の感覚はやはり一般的とは言い難かったのか・・・。
「ルパンⅢ世」「宇宙戦艦ヤマト」・・・どれもパートⅠ、第一作目の方が好きだ。
絵は確かにパートⅡ、あるいはニューバージョンの方が正確無比なのだが、心に響くのは人気が出る以前の作品群だ。
「ルパン~」でいえば、主人公のジャケットが赤ではなくうす緑っぽかった時代。
原作者のアイデアが毎週てんこもりで興奮度がすさまじかった。
ラストの歌もよかった。峰不二子がバイクに乗り砂漠をひた走る。
歌詞は ♪ワルサーP38。 孤独だ、美しい。かぎりなく切なかった。
一方、父の代表作「宇宙~」においても、最初のTVシリーズ26話が傑出している。
このあと「ヤマト」はTVシリーズ6パターン、映画4パターンが制作され、そのつど父は新しいメロディーに
日々頭をなやませていたものだが、私なぞつれないもので、3作品以降は見てもいない。
それぞれに共通して言えるのは、どれも2作目以降はキャラクターありきのストーリー展開、
「キャラクター戦法」になってしまった、ということである。本来お客(見る側)の想像力にゆだねられるべき
主人公たちの細部が、刻銘に描かれ、むしろそっちがストーリーの中心になって行ったりする。
そうなると作り手の想像力を押し付けられている様で興醒めしてしまうのは私だけか!

しかし世間はむずかしい。いつもウラハラ。ルパンⅢ世は「赤いジャケット」になってからパァーッと火が付き、
未だに全世界的に楽しまれている。キャラクター戦法は金になるのだ!
そういえば、イギリスの人形劇「サンダーバード」も、後期の劇場版映画では「悪役キャラ」が登場し、
私は当時子供だったが「子供ダマシ・・・」と憤慨した。
「サリーちゃん」「ルパンⅢ世」「宇宙戦艦ヤマト」「サンダーバード」と、こうして並べると、
何が壮観ってやっぱり音楽だナァ。

かの映画スター、ジェニファー・ロペスが、かつて日本のオリジナルミュージカルに出演していたのを
御存知だろうか。9999/10000 の確立で御存知なかろう。
あとの 1/10000 の人間はおそらく「大阪花博ミュージカル・シンクロニシティ」の関係者であろう。
実際彼女はその和製ミュージカルにアンサンブルの一人として出演していた。
無名時代の彼女のキャリアのひとつである。
稽古期間、上演期間、あわせて二ヶ月ほど東京と大阪に滞在していたハズである。

何年か前に、新作映画のプロモーションで再び日本を訪れたジェニファーは、記者会見で、
「私が知っている唯一の日本の歌」として「Beautiful World」という花博ミュージカルの中の歌を披露し、
記者達にサービスをしたそうだ。その曲の作曲者が何をかくそう私である。
作詞は作家の高平哲郎氏。バブル隆盛の頃のミュージカル。
あの時期私達はよく日米合作とうたい、アメリカ人振付師を雇ったりアメリカ人出演者をオーディションしに
(買い付けに!)アメリカへ渡った。この花博ミュージカル・シンクロニシティもそのひとつで、
主役級ではないがアンサンブルの一人として雇ったダンサーの中に未来の映画スターが混じっていた、というわけだ。
実際のところ、彼女にソロの歌があったわけではなく、その他多勢の中の一人であった由、
私は当時の彼女を覚えていない。
いやそれどころではない。私は彼女の映画を観たことがないのだ。

数年前の、その記者会見の後、私と高平氏との会話。
「なァ、アキラ。花博に出てたジェニファー・ロペスがこの前映画の記者会見であの歌歌ったらしいぞ。日本語で。」
「・・・?」
「お前、知らないのか。花博のメンバーにジェニファー・ロペスが居たことを。覚えてないか、眼がくりっとして、
あれが何とジェニファー・ロペスだったんだよ。」
「・・・?」
「あっ、お前は映画スター ジェニファー・ロペスを知らないのか!」

正解。私は不勉強と言われてもしかたないが、昨今のあまりの情報の多さに、
チャンネルを別の次元に合わせて活動して来た。
お陰でジェニファー・ロペスも知らずに育った(?)。
先日新作ミュージカル「クラリモンド」でご一緒した貴水博之さんのことも知らなかった。
いかに人気のあるシンガーか。否、彼は実力も凄かった。
私の妻はもっとすごい。バイオリニストである妻と私の会話・・・
「明日は、一日中武道館で仕事だから。」
「ヘ~ェ、誰かの伴奏ですか。」
「そう、エーッと、最近人気がある、何て言ったっけ・・・変な名前・・・スキップだっけ。」
「そりゃSMAPだろが!」

こんな風に我が家は「流行」とは別の流れの中を生きている。
流行らせようと思って作曲をしたこともない。
しかしこのままで良いとも思っていない。
こうしてもう二十五年もミュージカルばかり書いているのだから、その世界でホームランを打ちたい。
究極の目標は、世界中で愛される曲である。

東北新幹線が出来てもう何年目だろう。
10年ほど前に那須高原に行っていた時期があり、ちょくちょく利用していた。
先日旅公演で仙台に行った際、久々に乗ることになった。
乗ってすぐ上野に向かう車中、私は耳を疑った。
「今だにあの曲を使っている!」

車両も変わり、緑のラインが若葉マークっぽかったのが、今じゃ二階建てだ。
しかし「マモナク・・・ウエノ・・・」というアナウンスの前に必ず流れる音楽は昔のままだったのだ!
そりゃあ物持ちの良いことで・・・さぞや名曲なのでしょう・・と、これだけなら驚きもしないところだが、
その曲には重大な特徴がある。
当時からその音楽にはミスタッチがあったのである。
1980年代に大量に作られたDX-7という楽器の音に似たその音は「電子ピアノ」という感じの音色で、
ト長調8分の3拍子。那須高原の若葉の上で、白いスカートを着た少女がイチゴ摘みでもしているような、
その軽やかなメロディーが、4小節目でピアノの指がからまってころぶ。
全部で7小節の短さなのに・・・あとちょっとなのに・・・。
こういうのを演奏上の「ミスタッチ」という。
でもどうして、このテープが後生大事に10年以上も使われているのだろう。
しかしこのテイクは本当にOKテイクだったのかしらん。
それとも東北電力かどこかの社長サマのお嬢サマがお弾きになってらっしゃるとか・・・。
こういう「味」を大切になさっていると言えなくもない。
そういえば同じ頃から盛んに使われるようになったものに、山の手線の発車ベルがあった。
それまでは「ジリジリ・・・」という本物のベルであったと思うのだが、いつのまにか電子マリンバチックになった。
しかも駅ごとにメロディーが違う。
日に何回も何回も使うので、機械がだんだんバカになり、ちゃんと止まるべきところで止まらなかったり、
発車する時にノッキングをおこしたように2度鳴りしたりすると、歩いているこっちまでノッキングしてしまう。
新横浜の新幹線改札口に、絢爛と鳴り響く「キップヲ、オトリクダサイ・・・」の音。
何台かある自動改札機が一斉に叫ぶ。」「キップヲプヲ、オトリトリ、クダダサイサイ・・・」
あんまりうるさいので、キップをお取りするのを本当に忘れたりするから不思議だ。

さてさて、昔から音楽を創る上でかっこうの材料にされてきたのが鉄道だ。
先日仕事場で童謡の歌集を見ていたらオドロイタ。同じ曲が、3曲もある!!
皆さん、「鉄道の歌」と言われてまっ先に思い出すのは次のどれでしょうか。

(1)♪いーまは山中いーまは浜ー
(2)♪おー山の中ゆく汽ー車ポッーポ
(3)♪汽車汽車ポッポポッポ

あーら大変、こんなに有名な曲が3曲も!
(1)は「汽車」(作詞:不詳作曲:大和田愛羅)
(2)は「汽車ポッポ」(作詞作曲:本居長世)
(3)も「汽車ポッポ」(作詞:富原薫作曲:草川信)
誰でも歌詞を見れば口ずさめる。日本人のDNAにしっかり組み込まれていそうな骨太なメロディーだ。
これに明治39年に大和田建樹が作った「鉄道唱歌」を合わせた4曲が、私的「四大鉄道の歌」ということになる。
歌詞をよく見ると(3)の「汽車ポッポ」には「スピード、スピード」なんてカタカナ英語が出て来て、
当時としてはハイカラな歌だったのかもしれない。
「鉄道唱歌」には実に66番までの歌詞がある。発表当時の正式名称は「地理教育鉄道唱歌」といったそうだ。

私も妙に電車に乗ると曲想がハズム。いつかはこれらに並ぶ鉄道の歌を作りたい。

大阪フィル・ポップス・コンサートを手掛けるようになってかれこれ12年。
このコンサートは春と秋の年二回行われ、リピート客も多い。編曲と指揮を受け持つ私の責任は重い。
が、そこは大阪、ブレーンやスタッフのノリもよく、面白いアイデアだとオーケストラの団員達も
乗って来るからやり易い。5年目の10回公演を記念して選曲したのが、ビートルズの「ヘイ・ジュード」であった(???)。
10年目の20回公演の時には同じ曲を「祝10周年!ヘイ・ニジュード(20度)」としてプログラムに載せた。
ならばアレンジは、パイプオルガンまでひっぱり出し、100人のオーケストラで荘厳に・・・と
アイデアの連鎖がおきる。準備は大変で、かつ楽しい。

ところでビートルズの曲というのは、どんなクレジットを見てもかならず、
作詞作曲 レノン&マッカートニー となっている。
小学生の時ビートルズに目覚めた私は、これは作詞がジョン・レノン、作曲がポール・マッカートニーであると
早合点した。そのうち自分でもバンドを始め、徐々に、そう簡単に分業できるものでもないことを知った。
ならば、このフレーズはジョン、この語句はポールという具合に混然一体となって作曲していたのであろうか。
否、実はこの2人は完全に独立して創作活動していたそうである。
そういえばビートルズの音楽は大別して2通りのタイプがある。ひとつはジョン・レノンがリードボーカルのもの。
意味深でアナーキー、淋しがり屋の視点を感じる曲が多い。これはジョンが作った曲ということ。
一方、ポールが作った曲は、リリカルな曲や何げない内容を格調高く表現している曲が多い。
こちらも本人のボーカルなのですぐ解る。
当時、私も若く、サウンド重視で音楽を楽しんでいたので、自由奔放なポール・マッカートニー作品に
深く共感していた。

「ヘイ・ジュード」に至っては世界の音楽の最高傑作だと信じていた。
しかし近年あまりこの歌はショー等では使われない。
内容があまりに個人的で、ほかの歌手が歌ってもサマにならないのだ。
「ヘイ、ジュード(=男子名)、悪い方に考えるんじゃぁないよ・・・」
なんじゃこりゃ・・・そうかこんな内容だったんだァ・・・。
考え方によっては、こんな内容の歌、というのは他にはないからユニークで凄い!とも言える。
しかし十代の頃「ヘイ・ジュード~ラーラーラーラララーラー!!」と日夜盛り上がっていた自分は何だったのか!!
と素直にヨロコベナイ。ジュードって一体誰なんだ。

そんなイケイケのポール楽曲と、シャイなジョン楽曲がミックスされた曲がこの世に一曲だけある。
正確にはいくつか他にもあるらしいが、私の知っているのは「I’ve got a feeling」という曲だ。
映画「Let it be」の中で歌われた。Aメロをポール、Bメロをジョンがそれぞれ作り、合体させている。
この曲が小6の私の一番のお気に入りであった。
偶然にも一番ぜいたくなビートルズの楽しみ方・・・だったのかもしれない。

そうなんです、遭難(?)したんです。
りゅーとぴあ公演を終え、イタリア軒に戻り、朝六時に「ご心配なく、飛行機は飛びます」との報告。

悠々と皆で朝食をとり、いざ新潟空港へ。日本海も雪で真っ白。そんな中「これほんまに飛ぶんかい?」
あれよあれよと言う間に道路も真っ白、視界は3メーター。しかし新潟のタクシーはチェーンも巻かずに渋滞もなし。

空港に到着。いす、ハエ叩き、CD、楽器、譜面、など下ろして建物の中へ。
とその時異様などよめきが・・・「あらっ、アンサンブル・ベガの人たちよ!まあ、夕べの音楽会、素敵だったわぁ」
と、それはそんな優雅などよめきではなく・・・

「ケッコウ」
という言葉にはさまざまな響きが含まれる。
「結構」「血行」「決行」
この場合、そのどよめきの源が
「欠航」
という掲示板の二文字であったことに、いささかの疑う余地もなかった。

今降りたタクシーのトランクに、いす、ハエ叩きなどを、再度上手に積み込んで、向かうは一路「JR新潟駅」
そこから苦難の、一都一府九県を巡る汽車の旅。
空港で買う予定だった加島屋のシャケ、ヤスダヨーグルト・・・
新潟駅で自由席のキップを買い、荷物を持ち、借り物競争のように走った。

9時36分のトキに飛び乗り通路側を確保した。
さっき笑顔で空港へ送り出してくれた親友たち、スタッフ、イタリア軒のホテルマンたち・・・
ああきっと今ごろアンサンブル・ベガが、新幹線にすし詰めになっているとは、夢にも思うまい。

地理教育「鉄道唱歌」
原作は66番まであるらしい。我々アンサンブル・ベガは、この日11番までを身をもって体験した。

「汽笛一せい新潟をはや我が汽車は離れたり

燕の村に積もる雪爆走の音をかき消せリ」

新潟県に始まり、群馬県、埼玉県、東京都

「旅の途中のターミナル解散するならここでしろ

改札くぐって色変わり我が家を車窓に垣間見ん」(宮川の自宅は世田谷区内)

神奈川県、静岡県、

「さっきの荒波日本海眼下に広がる伊豆の海

背中とお腹を見比べりゃたしかに日本は島でした」

愛知県、岐阜県、滋賀県、京都府

「近鉄電車にゃ特急券行列作って買いましょう

ここから叫んで汽車止めて気が付きゃみーんな関西弁」

やってまいりました奈良県へ、一都一府九県の旅。
開演ベルの45分前、申し合わせたようにゴール。所要時間約7時間。
それでも道中作った歌を披露し、笑いあり、踊りありの音楽会。
アンコールも3曲やって、その後東京に帰った自分を褒めてやりたい。

厚い防音ドアーの向こうから、ポロリポロリ静粛なピアノの音がこぼれて来る。
思わずドアーの内側をのぞいて見る。壁一面に貼られた鏡、部屋をぐるっと囲む木製のバー、
入り口付近にはマツヤニを盛ったトレイとトゥシューズを拭くためのぞうきんが一枚。
無味無臭の創作空間、それがバレエの稽古場だ。

初日を一ヵ月後に控えたバレエ団が、「パキータ」という演目の振り付けの最中らしかった。
振り付けをしているのは外国人らしい、コールドバレエのパートを練習していた。
もれ聞こえていたピアノは、稽古ピアニストの日本人女性のかなでるそれであった。
あのグランドピアノはスタインウェイであろうか?いやカワイの様な感じだ。

私がウん十年前、代々木のバレエスタジオ(ある有名バレエ団の)で弾いていたやつはカワイだった。
ボロボロのカワイのアップライトだった。
毎日毎日、そこで生徒たち数十名がジャンプをするための力強い響きを出し続けたのだもの、
しかも右足からが終わったら、左足からだもの…朝2クラス夕2クラスだもの…ピアノだってボロボロになる…。
そのおじいちゃんピアノをイギリスから来たレッスンピアニスト、アリソンじいちゃんが弾いたときは、
まことに詩のようだった。美しくも、せつなくも、楽しくも、すべてにあふれるのはヒューモアーであった。
あの時、自分は「これが私の仕事」と思ったのだった。

それにしても何とここはめぐまれた施設なのだろう。
さっきのぞいた大きな大きなスタジオはバレエの為のレッスンスタジオ。
廊下のこっち側はオペラの為の稽古場、たったいま出て来たヨーロッパ人はマエストロだろうか…。
その他に同じ大きさのスタジオが3つ。中くらいの稽古場(芝居の稽古なら十分)が2つ。
小さな個室的スタジオが6つ~7つ。奥の方にはオーケストラのリハーサルルームもある。
ここは初台の新国立劇場地下のリハーサルフロアー。
こんな夢の様な夢を創るための本当に夢の様な空間が、日本にもあったのだ。
あっちの部屋ではオペラの大道具を作っている。マッサージを受けているダンサーもいた。
そして我らが「星の王子さま」の稽古場もその一角を占めている。
私たちは、オペラとバレエの稽古場に挟まれてミュージカルを作っている。
クリエイティブな時間はジャンルを問わない。

どの部屋も皆、みえないものを見ようとしている。耳をたよりに見ようと必死だ。
見えない時間が見える時間となり、見える様な音楽が湧き上がり、
夢の様な舞台空間がここでは次々生まれていくのだろう。

音楽を楽しんだことがあるお人なら、それがどんなに楽しいことかご存知だろう。

ハモる=ハーモニーを奏でる。

父、宮川泰の説によれば

ド=お父さん
ソ=お母さん
ミ=子供
そしてちょっと寄り道したくなる
ラ=愛人

ということになっている。

これは「ラ」がいかに大切な音かということを説いているのだが、ド・ミ・ソの定義だけでも大いにうなずける。
本来「ド」に一番共鳴する音が「ソ」である。低音でこれを奏でると「お経」のような空気になる。
どこか尊く、深遠で、完全である。
しかしそればかりでは重苦しいときもある。ドゲトゲしかったり、まじめくさった感じもいなめない。
子はかすがい。そこで間を取り持つのが子供である「ミ」というわけだ。
「ド」も「ソ」もとたんに顔がほころび明るくなる。

アマチュアオーケストラ、中でも吹奏楽団にとってはハモりこそ目前のハードルである。
2分の1ヘルツ、4分の1ヘルツ、いや何セントの世界で完璧なハーモニーを目指すという。
しかし、そのハーモニーが達成しうるのは、彼等がすでに同じバンド、同じ学校、あるいは同じ職場などで
苦楽を共にする「家族」であるからに他ならない。
いくら何ヘルツ、何セントでハーモニーを作っても、同じ家族を形成するための、
平和のためのハーモニーでなければ、ハモったようには聴こえまい。
他人同志だっていい、本当の家族のように混じらなければ、本当には混じらないのだ。

家族が出来れば楽しいではないか。
そして誰もが真剣に家族を愛す。
親は体を張って子を守るし、子も、親の身を案ずるではないか。
考えてみて欲しい、同じ職場の他人どうしが、家族になれるのが音楽なのだよ。
見知らぬ二人が、「ド」と「ミ」を奏でたら、その二人は少なからず「平和」に一石投じたことになるのだよ。
「命」に一票入れたことになるのだよ。
本来、宗教、肌の色、国境などを飛び越えるのが音楽。
むしろその垣根を取り払うのが音楽の役目である、と筆者は信じる。

音楽の響きの現場がそのことを実証する。
2005年2月13日、楽器の町=浜松では、「宇宙戦艦ヤマト」を作曲者自らの指揮により演奏する為に、
総勢120名のアマチュア演奏家たちが集った。
土地柄、メンバーの中にはヤマハ、カワイを筆頭にたくさんの楽器メーカーの職員が顔を揃えた。
トロンボーン奏者はヤマハの調律士、フルートはカワイの同業者、ヴィオラ奏者はローランドの人だったか・・・。
こうして商売の垣根を越えた新しい家族が誕生した。

いつかノーベル平和賞を音楽家達がもらう日を、私は願ってやまない。

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